リレー・エッセイ・会報 59号掲載

■ 「新米カウンセラーであったころ
 ―インテーク・カンファレンスでの緊張感―」

筑波大学教授 田上不二夫

 指導教官の原野広太郎先生の研究室に呼ばれた。大学院の博士課程2年生のときであった。「内山(喜久雄)先生から、君を助手にほしいという話しをいただいた。君にとっていい話しと思うから行きなさい」椅子に腰掛けた原野先生は助手としての心得をじゅんじゅんと諭された。かくして東京教育大学教育学部教育相談研究施設の助手として、私の新米カウンセラーとしての仕事は始まった。
 話しは戻るが、自分がカウンセリングをするとは夢にも思っていなかった。自分のことさえ分からないのに、人に助言できるはずがない。カウンセリングと人生相談を混同していたのである。たまたま大学近くの古本屋で立ち読みした本の扉に、著者とロジャーズとの出会いが書かれていた。「クライエントは、自分がどうすればよいか、自分で答えを持っている」。それを読んで、クライエントと二人三脚でいいなら自分にもカウンセリングはできるかもと思ったが、それでもカウンセラーになろうとは思わなかった。
 大学院に入学したとき、指導教官の原野先生から、「教育相談」の授業に出るようにという指導があった。実験だけではなく臨床も手がけるようにということである。授業は教育相談研究施設のインテーク・カンファレンスを兼ねており、ケースを担当した教官のもとで指導を受け、それをレポートにまとめるというものであった。氏森先生から集団プレイ・セラピィによる自閉症幼児の社会性の援助、深谷先生からプレイ・セラピィによる緘黙児への援助、東京外語大からいらしていた遠藤先生からは呼吸法と同時音読法による吃音者への援助など、それぞれの先生の得意技を、事例を持ちながら教えていただいたことは貴重な体験であった。原野先生からは暗示療法による心因性の皮膚疾患者への援助について指導を受け、言われるままにしていたら、あれよあれよという間に炎症が改善し、何が起きたのかわからないままに治ってしまった。
 助手になって、事務官に手伝ってもらいながら物品管理と会計を担当したのは、はじめてのことでまごついた。しかし内山先生から系統的脱感作法による書痙への援助、大野先生から動作法による脳性麻痺への援助などを通して、カウンセリングについて教えていただくうちに、しだいにカウンセラーらしくなっていった。
 最も緊張したのは、自分も大学院生のとき参加した「教育相談」の授業である。火曜日の午前中に、その授業はあった。前の週の土曜日に助手が手分けして7ケースをインテークし、それを報告して指導方針と担当者を決めるのである。大勢の教授の前で、自分のカウンセラーとしての資質、見立ての能力をためされている感じがした。月曜日の夕方になると、インテークしたケースについて、自分なりに問題は何なのか、報告する順序はと考えているうちに、緊張が少しずつ高まってくるのを感じた。
 新米カウンセラーを最も悩ましたのは、女性クライエントの感情への対応であった。面接中に抱きつかれたケース、「泊まっていく」と面接室で動かなかったケース、相談室の外で待ち伏せされたケースなど、新米カウンセラーにとっては難題であったが、私的な空間と面接室の意味を考えるチャンスにもなった。
 なんだかんだするうちに、やがて新米カウンセラーを卒業していった。