リレー・エッセイ・会報66号掲載

■ 「新米カウンセラーであった頃―私の受けた教育分析―」

明の星短大客員教授 國分 久子

 大学卒業後間もなく(1955年頃)、私は自分の専門性の不足を補うべく霜田静志の研究所に通っていた。そこでは、霜田静志の精神分析の講義だけでなく、外部からも新進気鋭の学識者が講師として招かれていた。小此木啓吾の性格分析、長島貞夫の役割理論、外林大作の夢分析、友田不二男の来談者中心療法、土居健郎の甘え理論、菅野重道の集団心理療法、池田由子のホスピタリズム、高木四郎の児童精神分析など、当時の心理療法の最先端の学問の息吹に溢れていた。その後、アメリカに留学してから現在に至るまで、この研究所での経験が常に学問の世界に置き去りにされないですんだ原動力になったように思う。
 もともと霜田静志はA.S.ニイルの著作の翻訳者であったが、ニイルがW.ライヒに教育分析を受けたことに影響を受けて、古沢平作(東北大学助教授の時代にフロイドのもとに留学後、小此木啓吾、土居健郎、前田重治などの教育分析者)の教育分析を受けている。霜田静志の研究所に私は四、五年通ったので、同じ講義を少なくともニ、三回は拝聴した。
 ところがその都度心に響く講義で、少しも退屈しなかった。受講生が自他を心の中で分析しながら聴かざるをえない話し方であった。つまりフロイドの単なる解説ではなく、フロイドを通してご自分を語った。「フロイド曰く」よりも「我思う」がそこにはあった。霜田静志の精神分析は「人間性あふれる育てる精神分析」であった。
 霜田静志の講義は原書を丹念に読まれ、それをご自分の体験を通して噛み砕き、ご自分の言葉でじゅんじゅんと語るという感じだった。たとえば現実原則の説明のときご自分の話をされた。ある時、息子さんが遊んだ自転車を片付けなかったので「片付けないなら自転車は崖から捨てるぞ!」といわれた。それでも片付けなかったので、先生は本当に崖から自転車を捨てたというのである。自転車は当時、高価なものだった。しかし、現実原則を教えるためには、このような毅然とした態度が必要なのだということを教えられた。
 研究所では二年間の講座を受けると、教育分析を受けられるシステムになっていた。カウンセラーとしての道を歩もうと思っていた私は、自己理解のために分析を受けたいと思っていた。霜田静志の教育分析は自由連想を五十分ほどして、十分ほど解釈をするという伝統的な方法であった。今は簡便法の時代ゆえ、私自身は自由連想法を用いたことはない。しかしこの体験から、一本の糸を発見するという感覚が、対面法でも役に立っている。
 カウンセリングでアセスメントといえば、心理テストを連想する人が多いが、傾聴しながら相手の問題を発見するのも重要なアセスメントである。このアセスメントをするためには、精神分析の読み取り方(解釈)は有効である。それゆえ、カウンセリング研修では「精神分析の理論と技法」の講義は重要だと思っている。
 さて、教育分析を受けて「なるほど」と思ったことが二つある。感情転移と抵抗、この二つを体験したことが、現在スーパーバイザーとして人と接する時役に立っている。私の父はどちらかといえば、厳格で気むずかしいところがあった。ところが、傍から見ていて柔和と思える霜田先生を、私はどこかで怖がっていた。感情転移というものはそういうものである。したがって、いくらこちらが相手によくしても、相手から疎んぜられることがあると知ったのは大きな収穫だった。
 もう一つの貴重な体験は、典型的な抵抗を起こしたことである。その日、私は分析のため勤め先の病院を定期に出た。代々木で乗り換えればニ十分で西荻窪駅に着くはずであった。ところがいつまで経っても西荻窪に着かない。時計を見るとすでに分析の時間は過ぎていた。胸騒ぎがして電車を降りたがそれは見知らぬ駅だった。私は慌てて電話を入れようとしたが、霜田先生の毅然とした顔が浮かんでくる。「自転車がいらないなら、捨てちゃうぞ!」「それに近いことを言われるのだろうな。君は、いつも分析に遅れてくるし、意欲が感じられない。もうやめちまえ!」そんな言葉が浮かんでくる。もうこれで終わりだなと思った。生きた心地もなく、受話器を握りしめたその耳に聞こえたのは霜田先生の穏やかな笑い声であった。「それは大変でしたね。今日はもう遅いですから、来週いらっしゃい。」それはとがめる雰囲気ではなく、暖かく包んで下さる声だった。それが抵抗だと知ったのはずっと後のことである。その後、抵抗の解釈は私の得意技のひとつとなった。