リレー・エッセイ5・会報63号掲載

■ 「新米カウンセラーであった頃」

日本女子大学名誉教授 杉 溪 一 言

 新米カウンセラーであった頃 ――― それは半世紀も昔の、 古いアルバムの中に収まっている懐かしい時代である。 しかしその頃の思い出は今も鮮明に残っており、 今日のカウンセリングの活況とくらべると、 まことに今昔の感にたえない。
 私は当時横浜国立大学の心理学の教官をしていた。 1951年にアメリカの講師団がやってきて SPS 研修会 (学徒厚生補導研修会) が開かれ、 私は同僚の伊東博さんと一緒に参加した。 その時の経験が私とカウンセリングを結ぶ契機となったのである。 (SPS 研修会については 「カウンセリング研究 Vol. 26 1 」 所収の拙論 「日本におけるカウンセリング ―― 回顧と展望 ―― 」 を参照されたい)。
 伊東さんと私は研修会で学んだことを何とか生かしたいと考えていたが、 1955年 (昭和30年)に横国大学学芸部に学生相談室を開設することが出来た。 その頃はカウンセリングといっても教授会の理解は得られそうもなく、 学部長を説得してかなり強引に設置したことを覚えている。 したがって部屋も満足なものがなく、 古自転車のころがっている宿直室の土間に粗末な机と椅子を置いてともかくも出発したのである。
 私の 「新米カウンセラー」 はそのときから始まったわけだが、 当時は誰もが 「新米」 で日本にはスーパーバイザーもなく、 研究会の集りで指示か非指示か折衷かといったことを喧々囂々話しあっていた。
 相談室のカンバンを出して間もなくのこと、 ある教授の依頼で一人の学生と面接することになった。 教授の話ではゼミで全く発言しないので単位も出せない。 このままでは卒業も出来ないからカウンセラーのところへ行って指導をうけてこいということであった。 私は小学生の 「緘黙児」 はわかるが大学生で全くものをいわないのはどういうわけだろうと訝りながら会ってみると、 耳がつぶれて変形している。 柔道の稽古をしていてつぶれたということである。 なるほど体格もガッチリしている。 それなのに発言できないのは何かわけがあるのだろうと聞いてみると、 何故かその沈黙学生が急に喋りだした。 その内容は忘れたが、 3 回にわたって面接し、 その間喋りつづけていたことを覚えている。 彼はカウンセリングの効果かどうかは解らないがその後単位も取得し、 無事に卒業して教職についた。 暫くして現任教育の講習で出会い、 礼をいわれたことが印象に残っている。 私の最初のクライエントはたまたま上首尾を得たが、 今から思うと、 新米カウンセラーのひたむきな"初心"がクライエントに通じたのかも知れない。
 学生相談は当時の私にとってアイデンティティの中心的な部分を占めていたが、 まだ新米の頃の経験で今も忘れ得ないケースがある。彼女は心理学科の学生で数学科から転科してきたのだが、 ある日カウンセリングを申込んできた。 非常に落ちこんでいて、 近く教育実習が始まるが生徒の前で話す自信が全く無いという。 しかし両親や親戚の期待もあって教員志望をやめるわけには行かない。 迫り来る実習を前に進退きわまって自殺もしかねない様子だった。 私は始めのうち非指示的に対応していたが、 せっぱ詰まったクライエントを目の前にして私自身もいたたまれなくなり、 カウンセラーの役割は放り出して声高に説教をはじめた。 何をいったかはよく覚えていないが死んだ気になって実習をやってこいというようなことをいったと思う。 彼女は私の様変りにびっくりしたようだったが、 それが転機になったのか気を取り直して実習に参加し、 結果的には元気に実習を終えることが出来た。 このケースも 今にして思えば、 私の中の一途な気持ちがクライエントの心に響いたのであろうか。
 私はわが国のカウンセリングの発達とともに年を重ねてきた。 この半世紀の間に内外の学者、 カウンセラーから多くのものを学んだが、 ロジャーズもいうようにカウンセラーは、 クライエントから最も多くを学ぶものだと実感している。 私は型にはめられることが嫌いで、 良くも悪くも自己流を貫いてきたが、 人間は結局その人独自の存在であり、 その人らしく生きることがカウンセラーのオリジナリティを育む土台となるのであろう。 その意味で年老いた今も新米の頃の初心を忘れずに生きて行きたいと思っている。