リレー・エッセイ4・会報62号掲載

■ 「私の新米カウンセラー時代」

福島 脩美

 昭和30年代は日本の主な大学に次々と学生相談室が作られていった時代で、たまたま私が国の心理職試験に合格していたことから、1961年(昭和36年)4月に東京学芸大学学生課職員として採用され、学生相談室の開設準備と受け入れ面接の仕事が私のカウンセラーへの最初の一歩になった。
 当時はカウンセリングを専門に勉強しているものはごく限られていたとはいえ、大学でほんの少しばかりの心理学をかじっただけの私に、学生相談の仕事が出来るとは思えなかった。幸い文部省の内地留学制度で九州大学に派遣され、初任給とそれより多い滞在費を全部使って人生で一番の金回りのよい時期を過ごした。九大では、関計夫教授が受け入れの中心になって、私のような立場のものが集まって感受性訓練やグループダイナミックス、自由連想の実習などに参加した。講義では、医学(池田教授)、精神分析(前田講師)等の他、他大学から友田不二男、岸田元美などの集中講義もあった。
 大学に帰ってから、品川不二郎(臨床心理学)、佐藤正(青年心理学)の両先生に学生相談委員をお願いし、相談室事業計画の説明、看板づくり、絵や応接セットを探し、学生への案内文づくりなどを開始した。そのかいあって相談件数はかなりの数になった。
 その傍ら、いくつかの研究会や研修会に参加して勉強した。その一つが学生相談研究会(中村弘道会長)で、東京地区研究会には飯塚銀次、拓殖明子らが参加して主導的役割をとっていた。当時入学不満感が学生生活不満感に結びつく事例が少なくなかった。そこで学生生活意識調査を実施し、その結果を、「入学に対する満足感について」(学生相談第4号、15-20、1964)、「教師への道」(東京学芸大学、1966)などにまとめ、報告した。そして3年目、課長から、ある大学の係長に転出しないかと突然訊かれた。学生相談という仕事をしているが、私は学生課の文部事務次官であるから、いずれは法律を勉強して行政の階段を上るのが通常の道と教えられた。私は職を辞して、東京教育大学大学院に進学し、実験的人格心理学、カウンセリングと心理療法、心理学研究法などを学ぶとともに、生涯にわたる師と研究仲間に出会うことになった。
 その後、東京学芸大学教育心理学教室に教員として迎えられ、学生相談委員を担当するとともに、研究室に教育相談室をひらき、教育相談臨床での新米カウンセラーを経験し、その養成に当たることになった。
 新しい機構づくりに取り組んだ時代は、今も印象が深い。初心忘るなということであろうか。