リレー・エッセイ3・会報61号掲載

■ 「私の新米カウンセラー時代」

内山 喜久雄

 私のカウンセリング歴は別に自慢にもならないが、古いものでほぼ半世紀近い。1949年、学制が変わり、新制大学(この言葉は今も通用するのだろうか)が発足したが、当時、勤務していた新設の群馬大学学芸学部心理学研究室でも非公式ながらその一隅に教育相談室が設置され、市民からの子供のしつけや、種々の問題解決に関する相談に応じることになった。
 当時は未だ30代になったばかりの駆け出し助教授であったが、一応心理学担当者ということで私も今で言うカウンセラーとして駆り出されたのである。ただ、私の母校、東京文理科大学(現・筑波大学)心理学科には、1936年創設された、おそらく我が国最古の大学付属教育相談部があり、二名の助手がこれに当たっていたので、心理学科在学中の私も戦時下ではあったが、見よう見まねで知ってはいた。したがって、駆け出しながらそれほど見当違いなカウンセリングにはならなかったように思う。
 当時、私は勤務地の前橋市に住んでいたが、時には2時間あまりかけて東京の母校を訪れ、ロジャーズの来談者中心カウンセリングにいたく感心したのを覚えている。ただ、「カウンセリングは、指示であってはいけない、無条件の受容こそカウンセリングの神髄だ。君の考え方はまちがっている」とその道の先輩から「指示」されたときは、ちょっと妙な気がしたが。
 こうして半ば、暗中模索のうちに兎にも角にも私の駆け出しカウンセリングは続いた。
 そのころから、ロジャーズの考え方も基礎としては重要不可欠だが、それだけで十分とは言えないと考え、これを補完できる原理を以前から他に求めていた。
 心理学出身の私の帰着するところは当然、精神分析か行動理論であったが、私の主義として実証性の希薄な理論(といったら叱られるか)にはついて行けず、結果として後者を選んだ。当時、選択性緘黙(eclectic mutism)の治療とカウンセリングに取り組み、元来、学習理論指向の強かった私はなかでも殊にドラスティックといわれるガスリー(Guthlie, E.R.)の接近説(contigutiy theory)を採用し、これにはまった。現在の行動カウンセリングの「はしり」ではなかったかと思うが。なかなか臨床的な効果はあったようで、これを基点としてまとめた研究がその後、私の学位請求論文(1959)となっている。