リレー・エッセイ2・会報60号掲載

■ 「『境界例』と『ロジェリアン』との出会い」

平木 典子

 私は1960年代の初期にミネソタ大学でカウンセリングの訓練を受けて、指導教授も先輩もいない日本に帰国した。新米カウンセラーとしての体験の始まりはも大げさに言えば、未開発の学生相談との悪戦苦闘と、ロジェリアンとの対決でもあった。
 学生相談の初期にもっとも衝撃的だったのは、全く対応に困惑した学生との出会いである。
 一方でふつうの適応をしているように見えながら、強い不安を訴えて来談した学生であったが、面接を開始してまもなく、受付の女性やインテーカーに私や嘱託の精神科医に訴えると同様の不安や妄想様観念を始終訴え始め、面接の回数を増やす要求、自傷行為、相談室の器物の破損、精神科医との面接時間の延長をねらって診療終了間際の来談、会議中の午後8時過ぎに急を訴えての来室、時を選ばぬ電話など、衝撃的行動と緊急な対応の要求がエスカレートしていった。そして、医師、受付、インテーカー、私を含めて相談所全体が、診断も確定せず、対応法も不明なまま、限りない対応の悪循環と消耗に巻き込まれていった。つまり、全員にとって初めての、当時「境界例」と呼ばれ、現在ならば「境界性人格障害」と診断されるであろう症状に出会って、全く試行錯誤の対応をしたことになる。今考えても、その学生の症状はかなり重たかったが、そのようにエスカレートした理由には、我々の対応の未熟さが大きく関わっていたことも確かであった。幸いに、その学生は留年を繰り返しながらも7年目には卒業したが、学生カウンセリングの挑戦をいきなり受けた経験であった。私にとって健康と病理のあいまいな青年期の心性に取り組むことこそ学生相談のテーマであることを教えてくれたのだった。
 ロジェリアンとの対決とは、私の書いたものからは想像できない人も多いかと思う。しかし、私は帰国してからしばらく、カウンセリング界では時代遅れの異端者であった。当時、日本ではカウンセリングと言えばロジャーズであり、学生相談の研究会のほとんどのカウンセラーはロジャーズに心酔していた。私はそのロジャーズが「指示的カウンセリング」と批判したウィリアムソンに師事して帰国したのである。
 ロジャーズを深く知りもしない、異端者の私が、ある研究会で先輩のカウンセリングのテープを聴かせてもらった時、「それは共感できない」と発言したことがある。ウィリアムソンは、学生部長を兼任していたが一般学生との話し合いの中でも、私が話をしに行ったときでも、非常によく相手に聴き、しかも明確に意見を述べる人であった。そのやり取りに感銘を受けていた私は、ロジャーズは知らなくとも、「聴く」とはどんなことか体感していたように思う。そして、ただ繰り返しているようにしか聞こえないカウンセラーの反応に「これは違う」と感じたのだった。浅薄で、生意気だったことは否めない私の反応であったが、納得いく説明もないまま「そんなことはない」と反論されたことは、その後私が「共感」とは何かを問い続けるチャンスになった。振り返ると、私の出発は手探りで、実に危うい。