リレー・エッセイ・会報 59号掲載

■ 「ロジャーズかぶれ」

國分 康孝

 私は二十代のある時期、ロジャーズに心酔していたことがある。そんなある日、ある母親からこんな相談を受けた。
 「私には12歳の子どもがいます。しかし、ある病気のために20歳までしか生きられないのです。母親の気持ちとしては、わがまま放題にさせてやろうという気持ちと、きちんとききわけのよい子に躾けるべきかという気持ちが相闘っています。私はどうすればよいでしょうか」
 私は「どうすればよいか迷っておられるわけですね」といった類の応答しかしなかった。その母親が立ち去ったあと私は罪障感を持った。人がはるばる来訪されたのに、何のたしにもならない面接だった、と。
 そこで私は師匠の霜田清志先生まで出かけていった。「こういう場合は何と答えるべきだったのでしょうか」と。霜田先生はこう教えた。
 「國分君、そういう問題は心理学になじまない問題である。君の人生哲学を丸出しにして答えたらよいのだ」と。
 これがその後私が、実存主義や論理療法や仏教など思想、哲学に関心を持つようになったきっかけであった。今考えてみると、東寺の私は理論中心のカウンセラーであった。理論に人を当てはめようとしていた。クライエントに合う理論や方法を選ぶという老婆心がなかった。来談者中心という美名のもとに理論中心の面接をしていた。こういうにがい思いがあったので、その後アメリカに留学したとき、ためらいもなく折衷主義・統合主義をとり入れて自分のカウンセリング・モデルをつくることにしたのである。
 特定の理論を信奉することによって、クライエントに心ならずも交差的交流をしてしまったことにこりた私は、理論志向のプロフェッショナル・アインデンティティ・(例;フロイディアン、ロジャーリアン、ラショナルセラピスト)はとらなかった。カウンセリング・サイコロジストが今の私のアイデンティティである。
(理事長)