会報より

『新米カウンセラーであったころ』

新米カウンセラーであったころ 日野 宜千
新米カウンセラーであったころ 繁田 千恵
新米カウンセラーであったころ 佐野 秀樹
新米カウンセラーであったころ 私のカウンセラー成長履歴 水野修次郎
新米カウンセラーであったころ 箱庭を自作して 玉瀬 耕治
新米カウンセラーであったころ 三川 俊樹
新米カウンセラーであったころ 藤生 英行
新米カウンセラーであったころ 沢崎 達夫
新米カウンセラーであったころ 山口 正二
「マイクロカウンセリング」と私 楡木 満生
新米カウンセラーであったころ ビギナーズラックと当時の学び 小林 正幸
あぁ 苦悩の青春時代 諸富 祥彦
出会いに支えられたカウンセリング人生 上地 安昭
新米カウンセラーであったころー多くの苦労の末の“新米”の味わいー 田畑  治
新米カウンセラーであったころ―インテーク・カンファレンスでの緊張感― 田上不二夫
新米カウンセラーであった頃―心理学インターンとして過ごした日々― 茨木 俊夫
新米カウンセラーであった頃 橋口 英俊
新米カウンセラーであった頃―私の受けた教育分析― 國分 久子
新米カウンセラーであった頃 杉溪 一言
私の新米カウンセラー時代 福島 脩美
私の新米カウンセラー時代 内山喜久雄
「境界例」と「ロジェリアン」との出会い 平木 典子
新米で最初が夜驚症、次が夜尿症に離婚相談- 相談が嬉しくもあり、怖くもあった - 松原 達哉
ロジャーズかぶれ 國分 康孝

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 102号掲載

栃木県カウンセリング協会 日野 宜千

 私が茗荷谷の東京教育大学(現筑波大学)の教育相談施設で新米カウンセラーとして本格的にケースを持ったのは昭和48年(1973年)、38歳の時でした。
 教師として高校の教壇に立ってから15年、かなり遅い出発だったと思います。
 教師の傍ら、栃木県の教育研究所相談部での「教育相談」の研修を3年ほど受け、そこの相談の手伝いも土曜日の午後など2年間していました。当時はロジャース全盛で、研修はEグループが主体で自分を見つめること、自分を高めることが中心でしたし、学校や相談部でのカウンセリングも、ひたすら聞くことが求められました。
 教師としてどうあるべきかに迷っていた私は、専門的なカウンセラーを目指し、内地留学生として教育大の「教育相談施設」に籍を置きました。
 茗荷谷の大学敷地内に設置された施設は、「行動療法」の内山喜久雄先生が所長、副所長の真仁田昭先生、「動作訓練」の大野清志先生、「プレイセラピー」の深谷和子先生、アメリカから帰ったばかりの原野広太郎先生など多士済々で、所内研修生や派遣研修生が各先生の研究室で「教育相談」や「心理療法」の実践を学んでいました。
 一年間の派遣研修生として、先生方の授業を受け、研究室のカンファレンスや研究会に出席しました。
 そこでの中心となる実践研修は、指導教官のスーパーバイズを受けながら、ケースを受け持つことでした。
 私の指導教官の大野清志先生は当時40歳半ば、催眠療法や自律訓練の第一人者で、後に「臨床動作法」となった動作訓練の先駆者でもありました。実践に重きを置いた心理療法家で、催眠を専門にしながら「行動療法」と一線を画していました。
 私は、大野研究室に籍を置いて半月ほどで、喉の痛みを訴える50歳の男性のケースを担当することになりました。
 今までの経験もあり、それなりの自信もあったのですが、「プロ」としてのカウンセリングの難しさと厳しさが身に沁まされました。テープレコーダーを抱えて相談室に通い、その内容を記録し整理して報告し、毎週大野先生のスーパービジョンを受けました。
 「オニの大野」と呼ばれた大野先生のスーパービジョンは厳しく、生半可に学んだ「来談者中心療法」の無力さと、傾聴の本当の意味を教えられました。
 大野研究室の一年間の研修で面接の基礎が身につきました。
新米カウンセラーとしての最初のケースは九ヶ月25回の面接で終結を迎えることができました。
 私はその後、栃木県の教育相談施設で20年間「教育カウンセラー」を務め,自分で開業した心理クリニックで17年、「心理カウンセラー」を務めるなど曲がりなりにもカウンセラーとして臨床の現場で仕事ができたのは、東京教育大学での一年間のスーパーバイジーとしての経験が基礎になっています。
 尊敬できるスーパーバイザーに出会えることが新米カウンセラーにとってどれほど役に立つかはいくら言っても言い過ぎになることはありません。
 新米カウンセラーにとって最も必要な「真の自信」はそこから生まれるのです。

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 99号掲載

NPOセスク・東京カウンセリングスクール 繁田 千恵

 今までにこのページに登場された先生方に比べ、私のカウンセラーになった動機もプロセスも、あまり学究的、専門的ではありません。しかし学会員の中には私と同じような中途入社?の方々もおいでになると思い、私のカウンセリングに入るきっかけと、新米カウンセラーとしての経験をお話ししようとPCに向かっています。
 私は昭和29年聖心女子学院英語専攻科を卒業し、その春に日本航空の客室乗務員、当時はスチュワーデス(現在はCA)として働き始めました。4年後に結婚して退社、その後10年ほど専業主婦で子育てをしていました。昭和45年に日本航空の客室訓練所の講師として羽田の客室乗員訓練所に勤務、そこで若い教官たちの相談にのり話を聞く機会が多くなりました。そしてシニアの教官たちとカウンセリングの勉強を始めました。全く心理学の素養もなく、ましてや臨床心理の知見も経験もない、単に人間相手の仕事というところが共通していたのだと思います。新人を預かり短期間に一人前の客室乗務員として現場に送り出す、その指導教官たちの心身のストレス、疲労に何とか援助的にかかわりたいという願いからでした。全く心理学の素養もない私たちは、怖れもなく知人に紹介された中村弘道先生(初代学会長?)に「ちょっと私たちにカウンセリングの手ほどきをしていただけますか?」とお願いしました。先生も驚かれたと思うのですが、気軽に何回かお越しいただきロールプレイなどもご指導いただきました。これが私のカウンセリングとの出会いです。
 その後もっと勉強したくなり、現在のNPOセスク・東京カウンセリングスクールの生徒になり、横山定雄先生、飯塚銀次先生をはじめ多くの先生から来談者中心療法、まだSTの残り香があるエンカウンターグループ、ロールプレイ、逐語検討、試行カウンセリングと学ばせて頂きました。まず体験学習ありき、理論はそれらを整理するために学ぶ、これが東京カウンセリング・スクールのカウンセラー養成の根幹で、それは今日まで変わることなく受け継がれています。4年のカリキュラムを終了し、その後スクールの講師としても仕事を頂き、合わせてTCS「こころの相談室」のカウンセラーとしてクライエントさんにお会いすることを始めました。新米の頃の録音テープはまだ残していますが、本当にこれがカウンセリング?という応答で、まことに当時のクライエントさんに申し訳ない気持ちで今もいっぱいです。この相談室では現在もカウンセラーとして働いています。いまは新米の頃より少しは自分のことが分かっていると思いますので、お越しいただいても大丈夫でしょう。
 当時スクールで論理療法を教えていただいた橋口英俊先生に立正大学学生相談室カウンセラーの仕事を紹介していただき、昭和62年から22年間勤務しました。それと同時に池袋の穂積クリニック(精神科)のカウンセラーとしても仕事をはじめました。
 新米カウンセラーの私を支えてくれたのは、クライエントさんご自身の力であったとつくづく思います。ロジャース先生の言われた、クライエントの潜在能力その発芽を妨げずに見守ることができたのが、私が今日までカウンセラーとしての仕事ができた大きな要因だと思っています。
 その間1980年代にTA(Transactional Analysis)と出会い、私の中でロジャリアンという根っこにTAアナリストという幹ができました。立正大学でカウンセラーと博士課程後期の2足のわらじを履き、平成13年には松原達哉先生のご指導のおかげで博士号もいただくことができました。その時私は67才でした。アカデミックな経験とは程遠いカウンセラーの歩みですが、私のTAの恩師、Mary Goulding 女史に言われた言葉「never too late to start」を心で反芻しながら、81歳の現在も日々現役のカウンセラー、TAセラピストとして過ごしています。

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 98号掲載

東京学芸大学 佐野 秀樹

 私がカウンセリングを本格的に始めたのは、現在の大学に就職してからである。それまで、学生として学部や大学院のカウンセリングプログラムでカウンセリングの授業や実習をとっていたが、仕事としては現在の大学に入ってからカウンセリングを行うようになった。初めての仕事は海外の大学院での経験を生かした留学生担当教員であった。当時、日本政府が留学生の教育を拡大することを決めた時であった。
 私の仕事は、留学生に日本の教育や社会について教える授業を担当することと、留学生にカウンセリングをおこなうことであった。当時、日本では留学生に関することは全て手探りの状態であった。大学では外国語ができる人や留学の経験者は少なく、留学生も日本語が全くできない人もいて、留学生に対して十分な対応ができていなかった。そのため、留学生が不適応になったり、突然帰国したりする事件などが起きていた。それでもなんとか留学生の適応を援助しようと、留学生と日本人の交流を広げようと自助グループを作ったり、用務員さんの部屋を使わせてもらって、個別の相談を受けた。
 その頃は、フィリピン、タイ、カンボジア、中国、韓国などの国費留学生が主であったが、留学生のための教材や授業もほとんどなく、日本語教育も始まったばかりという状況であり、留学生も日本に来て何をしたら良いのかわからないという感じであった。
 カウンセリングについても異文化カウンセリングという名前だけで、具体的な実践報告などはまれであった。留学生の援助のための一助として、カルチャーショックの心理学を研究テーマにして、カルチャーショックのプロセス、社会的困難場面の特徴、文化の違いによる社会的認知の違いなどを研究もおこない、留学生の置かれている状況や心理について研究し、留学生の置かれている状況の理解に努めたが、個別のカウンセリングでは、留学生に対する大学の対応が不十分だったり、異文化に暮らしていることも重なり、かなり深刻なものもあった。精神病圏内と思われる学生もいて、経験不足の新米のカウンセラーとしては対応に苦慮した。
最近は、留学生に対する大学の対応もよくなり、大学に国際課ができ、留学生センターには多くの留学生担当教員がいて、英語での相談窓口があり、学生チューターも利用できる。留学生の人数も増え、キャンパス内で日本人と留学生の交流も広がっていて、留学生のキャンパスでの適応もよくなったように見える。
 現在は留学生の仕事から離れて教育相談の仕事をしているが、小、中学校での海外からの子どもの適応の問題が広がっている印象がある。これは、私が以前、経験した留学生の適応の問題と同じようなところがある。学校での海外からの子どもの受け入れ体制(日本語教育、専門の教員の欠如、親への援助システムの欠如など)が整備されていないために、そうした子どもへの適切な対応ができず、放置されている場合もある。移民に長い経験のある欧米に比べ、海外からの子どもたちへの教育的支援、法律の整備、人的資源など早急に充実させていかなければ、海外からの子供たちの問題は社会問題になりかねないと思う。
これからの日本は、海外からの人材の教育や育成に努め、留学生や海外の人々と共生していくことになると思われる。そのために、行政や教育関係者と協力して、異文化カウンセリングも発展して欲しいと思っている。

新米カウンセラーであったころ 私のカウンセラー成長履歴

リレー・エッセイ・会報 97号掲載

立正大学教授  水野 修次郎

 最初にカウンセリングに興味を持ったのは、1970年代のアメリカ留学中でした。友人のマイクの影響がありました。スクールカウンセリングを勉強していたマイクは、週末にはボーイズタウンといって、孤児と非行少年のための施設で泊まり込みの仕事をしていました。私は、マイクの紹介でその施設で泊まり込みの監督のアルバイトしたことがありました。マイクの紹介でカトリックの学校を訪問したりして学校教育の現場でのカウンセリングに触れることができました。
 アメリカのベトナム戦争終結時の混乱もあり、私はアメリカに対して幻滅を感じていました。枯葉剤の散布による後遺症で帰還兵はガンを発症した者もいました。今年の、6月に参加した、NCDA(全米キャリア発達協会)で帰還兵のカウンセリングをしている人から確認したのですが、枯葉剤散布によるガンの発症はいまだに問題になっているそうです。
 アメリカ研究でMAを得たのですが、アメリカ文明にすっかりと幻滅して、アメリカ研究すべてを捨てました。その後、私立の中学・高等学校で英語の教師をしていました。偶然にも県の教師研修会でカウンセリングの上級研修を修了することができました。また、国立教育研究所の内地留学で、オープンスクールについて学ぶ機会がありました。アメリカの教育が見事に立ち直っていることを知り、驚きました。その理由を知りたくて、もう一度アメリカに留学することにしました。アメリカの大学院でスクールカウンセリングを学び、3校の高等学校で研修し、多文化カウンセリングセンターで4年間働くことができ、カウンセリングで博士も取得できました。その後、再び日本にもどり、大学の相談室勤務・研究職・大学での教職に就きました。
 私が学んだKelly教授は、『関係中心のカウンセリング』という著書がありました。またVontress教授からは、多文化カウンセリングや実存カウンセリングを学びました。Rashid教授からは、生涯発達理論を学ぶことができました。その後、NY大学のLickona教授やBoston大学のRyan教授、Missouri大学のBerckowitz教授などとのコラボで、character education(人格教育)の共同研究を続けています。アメリカでは、リハビリカウンセリング、コミュニティカウンセリング、多文化カウンセリング、キャリアカウンセリングと幅広いカウンセリングの教養を学ぶことができました。
 私のカウンセリング論は、個人カウンセリングはもちろんですが、心理教育、学校教育、予防教育という技術だけではなく、教育や人としての生き方、哲学を含むものです。カウンセリングは、アートと科学の結合した新しい学問です。医学もまたアートと科学が結合させて、人間のさまざまな苦しみを治療する学問です。私の学んだカウンセリングは、人間の幸福(wellness)を促進し、発達課題を達成するのを援助する学問です。人間のある種の苦しみや生きにくさに病名をつけて、その症状を診断し固定することもできます。これとは違い、私の目指すカウンセリングは、発達的見立て(developmental assessment)です。エンパワメント(empowerment)や権利擁護(advocacy)という技術や考え方は、この一連の流れから生まれました。心の病は、文化によって現れ方や苦しみ方が違います。そのように考えると、住んでいる文化によって病気や障害の意味に変化が生じます。
 私のカウンセラーとしての成長は、人間としての成長過程であり、一直線に右肩上がりの経歴ではなくて、アップダウンのあるジェットコースターに乗っているようなものです。変幻自在(protean)と無境界(boundaryless)というのが、この経験を形容する言葉です。この時代のポートフォリオは未来からのもので、過去からのものではありません。カウンセラーとしての成長は、進化途中(becoming)なのですが、方向性は一定しています。重くなりすぎた荷物は捨てて、身軽になって先に進むことが進化なのでしょう。

新米カウンセラーであったころ 箱庭を自作して

リレー・エッセイ・会報 96号掲載

帝塚山大学教授  玉瀬 耕治

 原稿依頼とともに著名な先生方がこのシリーズでお書きになったものが送られてきた。その中には私より二回りも年上の先生もおられる。お世話になった先生方ばかりでなつかしくもあり、拝読しつつお若い頃はそうであったのかとさらなる親しみを感じさせていただいた。さて、私はどうだっただろうか。私が母校の助手になった頃、恩師はまだ30代の学習心理学者であった。その先生は大学に来るまでは少年鑑別所の技官として少年たちに面接をしたり、心理検査をしたりされていたそうだ。当時、大学では臨床心理学という講座・学科目はまだ認められていない。私は学習実験に取り組んでいたが、恩師から君は臨床もやるべきだと勧められ、学生相談や教育相談にかかわることになった。ただし、臨床では論文は書けないから基礎研究もせよとのことであった。私は何の不満を感じることもなく、その助言にしたがっていた。
 その頃、河合隼雄先生がスイス留学から天理大学にもどられ、サンドプレイなるものを始められた。ある機会にお会いしたところ「よかったら来ますか」と言われ、思い切って大学の教育相談室をお訪ねした。そこには箱庭がおいてあって、「やってみますか」と言われた。今でもそのときの私の作品は覚えている。先生は何も言わずに後ろでじっと見ておられた。威圧感はなかったが、確かに見られているという感覚はあった。その箱庭は寸法が決めてあるとのことだったので、私は自分でそれを作ることにした。幸い大学には木工や金工の先生がおられたので、いろいろ手伝ってもらって規格どおりのものを完成した。ブリキのハンダ付けや内側の水色のペンキ塗りも自分でやった。ミニチュアは大阪の松屋町や高島屋まで買いにいき、少しずつためていった。
 ちょうどその頃、児童相談所に勤めていた心理判定員の先輩から、ある子どもをみてくれないかと頼まれた。自閉症を疑われる幼稚園児を大学の教育相談室で私がみることになった。その子との関係ではおもしろい経過をたどったが、私の唯一の事例報告として河合先生の「箱庭療法入門」の中に文献(「遊戯療法における発展過程(事例報告)」)として載せられている。私は箱庭を使いつつ、この子を行動療法的に捉えるとどうなるのかなどと考えていた。しかし実際にはじっとその子がしたいことにつきあっただけで、言ってみればクライエントセンタードな態度であったといえる。私は精神分析よりも学習心理学に基礎をおく行動療法に関心があり、当時、学内の教育研究所紀要に「行動療法の特徴と最近の研究」なる一文を書いている。恩師の先生方から、君はもう少しカウンセリングの勉強をしたほうがいいから九州大学で行われている文部省主催の「集団力学・カウンセリング研修会」(3か月)に行ってくるようにと命じられた。ここでは催眠研究の大家である成瀬悟策先生にお会いした。先生は当時まだ助教授で脳性マヒの研究に没頭されていたが、行動療法についても調べておられた。夕方行われる先生の研究会に出させていただいて、いろんなお話を伺った。
 考えてみると、私はいろんな先生方とお会いし、刺激を受けてきたようである。ときどき学会では流派間での論争が見られたし、私もそれに加わることもあったが、いま思えばそんなにむきにならなくてもよかったような気もする。どの学派からも学ぶものはあり、結局は自分で自分のスタイルを決めざるをえないのだと今は思っている。

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 94号掲載

追手門学院大学教授  三川 俊樹

 大阪大学大学院の博士前期課程に在籍し、修士論文に苦戦しながら、週1日の非常勤相談員として教育相談を担当するようになったのは1985年のことでした。
 修士論文は中西信男教授の指導の下で「生活ストレッサーと対処行動」をテーマに調査研究を行っていました。しかしながら、このストレス・コーピングに関する研究を、それまで学んできたカウンセリングの理論や実際に結びつけることができないままで、「自分の研究はカウンセリングの実践に役立つのか?」「このような調査研究に労力を費やすより、カウンセラーとしての実力をつけるための活動にもっと時間をかけるべきではないか?」などと焦るばかりで、実証研究の意味すら見失いかけていた記憶があります。その後、修士論文における調査結果をまとめて投稿した論文が、編集委員会の先生方に懇切丁寧なご指導をいただいたおかげで『カウンセリング研究』に掲載され、1990年には奨励賞をいただいたことが大きな励みとなって、実証研究に携わるカウンセラーとしてのアイデンティティが定まったように思います。
 一方、新米カウンセラーとして最初に受けた相談は、不登校の小学生の事例でした。当時は「登校拒否」という用語が用いられ、その対応については「登校刺激を与えず、子どもの自主性の発達を待つ」という方針を強調されているベテランのカウンセラーも少なくなかったと記憶しています。そのような状況で担当した事例が片時も頭から離れず、関連する専門書や事例報告を手当たり次第に読んでは、子どもへの遊戯療法や箱庭療法、母親との面談に加えて、保健室を活用した同伴登校、担任教師への家庭訪問の要請などを提案し、迷いと焦りが交錯する中で右往左往していたことを思い出します。
 新米カウンセラーの未熟さゆえ、自分の依拠するカウンセリングのアプローチも定まっておらず、学んだはずのセラピーやカウンセリングにも自信がないままでしたが、週1回の相談は中断することもなく継続しました。その中では、箱庭における象徴的表現と子どもの行動変容との見事なまでの対応に目を奪われ、その一方では、母親による登校勧誘、養護教諭の援助や担任教師の配慮により、教室復帰に向けて着実に進んでいく子どもの様子が報告されるたびに、「自分はカウンセラーとして、どの立場に立って、誰を援助しているのか?」「自分のしていることはカウンセリングなのか?」「自分にカウンセラーとしての実力があれば、養護教諭や担任教師にここまで頼らなくても済んだかもしれない」などと反省ばかりしていたように思います。カウンセラーが一人で抱え込まず、クライエントに直接に関わる人々の協力を得ることの重要性が実感できるようになり、積極的にコンサルテーションを行うようになったのは、もっと後になって「学校心理学」の理論と実践に出会ってからのことです。
 新米カウンセラーであった頃には、事例会議や事例検討会に参加したり、事例報告の後に厳しいコメントやアドバイスをいただくことはあっても、カウンセラーとしての成長のために継続的なスーパービジョンを受けるという発想はなく、そのような機会もありませんでした。当時のことを振り返ると、今でも冷汗が出るような記憶が浮かび上がってきます。そのたびに、カウンセラーとしてのアイデンティティを形成し、その専門性を高めるための指導として、“本物の”スーパービジョンが必要であると痛感するこの頃です。

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 92号掲載

筑波大学教授  藤生 英行

 仕事としてクライエントの対応を行い始めたのは,大塚キャンパスにある筑波大学学校教育部(現・附属学校局)に講師として勤めだしてからのことである。
 昼間は,クライエント対応の他に関連組織の会議しかなく,もっぱら心理・心身障害教育相談室でクライエントとの対応にあたった。昼間は静かな大塚キャンパスであるが18時過ぎになると教育研究科カウンセリング専攻カウンセリングコース(修士課程)の社会人院生で賑やかな場所であった(現在は,博士前期課程生涯発達専攻カウンセリングコース,博士後期課程生涯発達科学専攻の博士前後期制になっている)。このカウンセリングコースは,日本で初めて開学した夜間大学院であり,当時も個性豊かな院生の方たちに大いに刺激され力づけられた。しかも大塚キャンパス赴任から1ヶ月足らずの間に,国分康孝先生が大会委員長をされ,田上不二夫先生が事務局長をされた日本カウンセリング学会第28回大会の開催があり,私よりずっと年上の社会人院生に指示されつつ動き回り,「赴任したばかりなのに」と思いつつ目が回るほど忙しかったことを覚えている。
筑波大学大塚キャンパスの学校教育部や心理・心身障害教育相談室のあったE館は東京教育大学の頃からあり,日本における教育相談の最初の地であったという。また,日本で最初の頃に教育相談の有料化をしていた。歴史ある伝統の地で,クライエントから料金を頂いているという責任感から,的確なカウンセリングを行わねばという思いが強かった。文献に当たりつつ模索しながら対応していた。
 学部時代には人格心理学演習(何故か,心理統計学であり原書をもとにt検定他を学習した)を履修したご縁で長島貞夫先生に指導教官をお願いし,ロジャース,ロロ・メイ,マズローなど第3勢力についていろいろ教えて頂いた。図書館で卒論に関する英文資料を読むとともに,ロジャース全集なども脈絡なく読んだのを覚えている。ある時,長島研究室を訪ねたとき「今の時代は,茨木君のように臨床だよ」と言われたことを契機に,茨木俊夫先生のゼミで担当する臨床ケースのお手伝いをさせて頂いた。カナータイプの自閉症児をブースに座らせ「手はお膝」などと指示し,オペラント技法を元にした行動療法も経験させて頂いた。修士では福島脩美先生のもとで,臨床経験を続けることができた。福島先生には,自己効力感に関する研究指導ばかりではなく,IPとなる子どもを持つ母親面接などを経験させて頂いた。福島先生のSVの観点は,今でも役に立っている。博士課程では,高野清純先生にご指導頂いた。論文執筆中の院生への丁寧な対応や,最新の情報に基づいて著書を素早く書き上げる,高野先生の文献処理能力には非常に刺激を頂いた。
さて,当時の大塚キャンパスに戻ろう。いずれのケースの対応についても最新の文献等をもとに,当時やれるだけのことをできたらと思っていた。大塚キャンパスでの勤務も落ち着いた頃,内山喜久雄先生に強迫神経症(現在は強迫性障害)のクライエントの面接に陪席させて頂いた。インテーク後の面接で,当時普及していたカセットレコーダーに手慣れた手順で録音しつつ,やさしい口調でリラクセーション教示を行いながら,リラクセーションを導入されていた。その録音テープはクライエントに手渡され,「家でこれを聞きながら練習して下さい」と伝えておられた。面接の流れを崩さず,次の手順の布石を打っておくことは非常に参考になった。このことは,今でもお手本にさせて頂いている。
 当時,相談室主催によるインテークカンファレンスが毎週金曜日17時から開催された。毎週開催にもかかわらずケース報告がたくさんあり,インテークケースや継続ケースを5分で見立て,方針につながる情報を簡潔に報告するのが大変だったことを覚えている。

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 91号掲載

目白大学教授  沢崎 達夫

 私は大学院修士1年の時から学内の教育相談研究施設でケースを持ったが、その頃は将来カウンセラーになろうという気持ちはなかった。ケースを持った理由も指導教官の故原野広太郎先生の指示であり、その頃学んでいたリラクセーション、催眠、自律訓練法などの実践の一環でもあり、現実的には将来の就職のためとも言われていた。当時は今のようなカウンセラー養成のプログラムもなかったので、面接法も何もかもが自己流であった。
 大学院修了後、最初に勤めたのはある教育センターの教育相談室であった。そこでは、先輩の相談員数人と自閉症児のグループを経験したが、先輩たちが皆「○○ちゃんは~をしたいのね」や「○○ちゃんは~と思っているのね」などの、いわゆる気持ちの明確化のような対応をしていた。この種の対応についてほとんど学んだ経験のない私にとって、それは驚いたのと同時に不思議な感覚であった。しかし、この頃はまだ訳もわからず、とにかく子どもたちとただ楽しく遊ぶだけの日々が1年間続いた。
その後、筑波大学の2ヶ所の相談室に勤務したのだが、この時期はまさに相談漬けの毎日で、私は大学の教員(助手、講師等)でありながら授業は持たず、指導学生もなく、ただケースだけをやっているという時期が10年ほど続いた。
 この時期の前半は、東京キャンパス(当時の学校教育部教育相談研究分野)の真仁田昭先生の研究室で、主に不登校児の活動集団療法(集団でのスポーツや遊び、行事等)を行い、一般の外来ケースも担当していた。やっと、本格的な相談の仕事を始めたのだが、きちんと臨床家としての訓練を受けていない私は、それこそ海に突き落とされて水泳を覚えるような感覚で、相談の仕事を始めていた。
最初のころはカンファレンスの中で、いかに自分に実力がないかを痛切に感じ、自分はこの仕事は向いていないのではないかとかなり悩んだりもしたが、それでも数年経つうちに自分なりのやり方や特性が少しずつわかり始め、何とかやれるのではないかという感覚も芽生え始めてきた。それは、経験の積み重ねと同時に、一緒に仕事をさせていただいた諸先輩の厳しくも温かい助言や励ましの力が大きかった。また、折に触れて真仁田先生の含蓄のあるお話が聞けて、私の視野が広がった時期でもあった。さらに、内地留学の学校の先生方との触れ合いが多かった時期でもあり、これが自分の財産ともなった。
 私は最初、研究者としての教育を受け、自分もそうなるつもりであったが、臨床の世界にどっぷり浸かることで、当初はアイデンティティ葛藤のようなものを感じていた。それに拍車をかけたのが「カウンセラー」という言葉であった。教育相談室にいたころ、自分は「相談員」だとは思っていたが、「カウンセラー」という意識はなかった。しかし、途中で筑波キャンパスの学生相談室に異動し、松原達哉先生の指導の下、初めて「カウンセラー」と皆から呼ばれ、カウンセラーとして仕事をすることになった。これには正直、とまどいがあった。自分はカウンセリングの勉強をきちんとしていない上に、当時はカウンセラーというとロジャーズ派の人のことを指すような考え方をしていたので、自分を学生相談室のカウンセラーだと抵抗なく名乗れるまでにしばらく時間がかかった。
 この時期は、遅まきながら勉強の必要性を強く感じるようになり、それまで行ったことのなかった各種の研修会、講習会に積極的に通った。30代も半ばになるころである。今になれば、もっと早くから勉強して基礎を身につけておけばよかったと思うこともあるが、現場に出てから勉強することも十分意味があり、その方が学びの意味もわかり、実力も社会性も身についたカウンセラーになれるのではないかと思うことも多い。

新米カウンセラーであったころ

リレー・エッセイ・会報 87号掲載

東京電機大学  山口 正二

毎日、忙しく過ごしているうちに月日は経ち、いつの間にか「新米のカウンセラー」としての自分のアイデンティティは消滅していた。また、「新米のカウンセラーであったころ」が存在した現在の自分にアイデンティティを確立しなければならない事実が3つできてしまった。1つ目の事実は、間もなく還暦を迎えようとしているという客観的な事実である。2つ目の事実は、日本カウンセリング学会の理事長に就任したという周知の事実である。3つ目の事実は、30年前に乳飲み子であった娘が、間もなく乳飲み子を出産する予定であるという家庭的な事実である。このような事実から、この原稿の執筆を断ることができなかったのである。
さて、カウンセラーとしての自分を自覚し始めたのは、筑波大学大学院博士課程に入学してからのことであった。指導教員は筑波大学名誉教授の内山喜久雄先生であった。当時、行動療法の第一人者として高名な内山先生の指導を受けている自分ではあったが、カウンセラーとしての自信は皆無であった。それでもクライエントに対しては誠意と責任を持って接していた。クライエントは新聞広告で募集した地元の住民であったり、田上不二夫先生(東京福祉大学教授)が勤務していた筑波大学保健管理センター内の学生相談室に相談に訪れていた学生であった。そのころ、同僚と言うか先輩と言うか後輩と言うか、よく分からない関係であった坂野雄二氏(北海道医療大学教授)が内山喜久雄先生の指導を受けていた。彼は院生のころから人一倍光り輝いていて、学位も就職も獲得した。それに比べて、真面目ではあったが地味で自己主張性の乏しい山口は、就職も学位(心理学博士)も手に入れることができないまま、筑波大学を追われる身となった。これは人生の中で味わった最初で最大の挫折であった。
就職浪人をしている時に、松原達哉先生(東京福祉大学教授)の推薦で東京都墨田区教育相談室の相談員に採用された。これは、筑波大学を満期退学する直前に結婚して乳飲み子を2人抱えていた山口にとって、実に有り難い職であった。墨田区教育相談室では、不登校を始めとした様々な問題行動を呈する幼児・小学生・中学生がクライエントであった。カウンセラーとしてのアイデンティティを強く感じ始めたのはこの時であったと思う。
墨田区教育相談室に2年間勤務した後、東京電機大学理工学部の講師に採用された。これで、小学校教員をしていた妻の扶養家族から外れることができ、大学教員・カウンセラーの2足の草鞋を履いて、胸を張って門出をすることができた。その後、条件のよい東京電機大学に就職できたことを誇りに思って仕事をするようにと故原野広太郎先生(元筑波大学教授)や福島脩美先生(東京学芸大学名誉教授)から激励を受けて、教育・研究・臨床活動に従事していた。
しかし、職場での教員による教員への集団いじめがあり、その対策に苦慮した。専門課程に籍を置く教員から見ると、指導する学生を持たなく研究を行わない一般教育の教員はいじめの餌食になりやすいようである。それでも、山口は学生相談室のカウンセラーをしている分だけ、専門課程の教員に近いと認識・判断されていたようで、いじめの対象にはならなかった。この時ほどカウンセラーという専門職に就いていることを有り難く思ったことはなかった。

「マイクロカウンセリング」と私

リレー・エッセイ・会報 69号掲載

立正大学心理学部長 楡木 満生

1.中村弘道先生との出会い
私のカウンセラー人生は、昭和51年(1976)年に自治医科大学の学生相談室に専任講師として就職したことに始まる。それまでは高校教諭や県の指導主事をしていた私にとって、生徒指導とは異なる「学生相談活動」は新鮮な響きを持った言葉であった。実際に学生相談室を持っていた大学はまだ東京近辺で数えるほどしかなく、教員の専門性を身につけたくてもどこで指導を受けたらよいかなかなか分からない時代であった。その当時は、日本カウンセリング学会(当時は「日本相談学会」と呼ばれていた)と日本学生相談学会(当時の「日本学生相談研究会」)はどちらも中村弘道先生が理事長をわれていた。このような新米カウンセラーにとって毎年一回文部省の隣りの国立教育会館で行われる全国学生相談研修会は、またとない勉強のチャンスであった。特に中村弘道先生から「学生相談カウンセラーは、学生の全人格の可能性を最大限に引き出す存在でなければならない」と言う言葉を聴いたときには、自分の行っているカウンセリングの重要性をあらためて教えてもらった思いがした。その後毎回の理事長挨拶で行われる発言は何か特別に貴重な響きをもって心に残った。

2.ロジャースの人間性心理学との出会い
しかし、当時カウンセリングを勉強しようとするとどこにいってもロジャース派が中心であり、その中でも非指示的療法が中心であった。その当時発刊中であった最新のロジャース全集を読めば読むほど、人間を肯定的に受け止める哲学に大いに賛同できて、ますますカウンセリングが好きになった。そして援助の仕事を私の職業的アイデンティティの支柱にしたいと思うまでになった。しかし、その人間哲学には賛同できても非指示的療法の技法についていけず、実際のカウンセリングは試行錯誤の苦闘の連続であった。

3.統合的なカウンセリングへ
昭和55年から56年にかけて、米国ミシガン州立大学に留学する機会を得た。ここで様々な教授からカウンセリングの全体像を学び、日本で学んでいたカウンセリング理論が、いかに部分的なものであったかを知ることになった。カウンセリングの理論史を学ぶと、理論が創設された背景にはさまざまな事情があり、それらを知ることが治療に役立つことを知った。例えば、学生相談の場面で私を感動させた中村弘道先生の言葉は、昭和26年にミネソタ大学のウィリアムソンが100名の教育使節団の副団長として日本に来られ、その時の臨床的カウンセリング(後の「特性因子理論」)を継承したものであることも分かった。さらにロジャース理論も「非指示的療法」は第1期の理論であり、第2期、第3期と次々と理論的成長を遂げたことも分かった。そして留学の最大の成果は、私を悩ましてきた技法についてマイクロカウンセリングと呼ばれる考え方があり、この各理論をマスターして組み合わせて使用すればどのような事例にも対応できることを知った。

4.マイクロカウンセリング翻訳書の作成
昭和56年末に帰国した私は、どうしてもマイクロカウンセリングの統合的アイディアを日本に紹介したいと思い、最初独力で翻訳を始めた。しかし、「マイクロカウンセリング」第2版は厚さ6センチもある本でとても1人で手におえるものではなかった。そんなときに私が同じミシガン州立大学大学院出身の先輩である国分康孝・国分久子先生ご夫妻が「他にマイクロカウンセリングを翻訳したがっている人がいる」といって福原真知子先生、椙山喜代子先生を紹介してくれた。福原先生はすでにアレン・アイビイ先生とコンタクトがあり、期せずして福原、椙山、国分(久子)、楡木で翻訳をする話がまとまった。そしてその翌年の昭和59年に日本学生相談学会の外国人講師としてアレン・アイビイ先生を呼ぶことに話が進んだ。この第22回日本学生相談研修会のアレン・アイビイ先生による講演会は大成功で、多くの人に理論を統合した技法が必要であることを印象付けた。それと共に、4人の記者が実際に実技指導を受けてみて、マイクロカウンセリングが本当に現場に即した方法であることが分かった。私たちの希望を聞き入れ、アレン・アイビイ先生は当時の最も新しいマイクロカウンセリングの教科書を翻訳するように薦めてくれた。私たちの翻訳したい気持ちは一挙に進み、何度も訳語の統一のための会合を重ねながら、翌年昭和60年(1985年)には、川島書店から翻訳書の初版本が出来上がった。
あれから18年が過ぎ、現在も第12版が継続して頒布されている。この間に心理的援助関係の世界も一挙に広がり、様々な理論や技法が登場してきた。そのような中で、マイクロカウンセリングが人々に与えた統合的なカウンセリングの哲学には大きなものがあったのではないかと思っている。

新米カウンセラーであったころ ビギナーズラックと当時の学び

リレー・エッセイ・会報 90号掲載

東京学芸大学教授 小林 正幸

▼環境がもたらしたビギナーズラック
大学院を修了して、教育相談の世界に入ったとき、定めた目標があった。面接時間で1万時間。それを経験するまでは、相談の場にいようと決めた。電話相談の時間を除いて、面接時間で合計1万時間、当時の職場の勤務状況からして10年を要する。奇しくも、大学院を出て港区の教育相談員、東京都の教育研究所で研究主事として過ごした時間が11年であり、目標は達成された。
当時はビギナーズラックに恵まれていた。港区の教育相談センターでも、都立教育研究所でも、優れた先輩たちに恵まれた。研鑽の機会も職場で豊かに準備されていた。毎週必ず半日のカンファレンスの時間があり、相談員として一人前と遇されながら、スーパービジョンを受けることができた。
当時は、教員向けの教育相談の研修が豊かに行われており、そこにも参加でき、研修のコーディネートをする機会も得られた。自分で講義を受けたい講師、実りのある研修をなさる講師を選び、招聘することも仕事として任された。
▼財産としての若さがもたらしたビギナーズラック
事例について言えば、忸怩たる思いになる事例はいくつもある。10年以上経過してから、ここを失敗していたと具体的に気づく事例もある。だが、よくよく考えてみると、忸怩たる思いになるのは、当時は存在しなかった理論によるもので、当時の自分の知識と技量では善戦した事例の方が多かった。
それどころか、今、考えても、どうしてうまくいったのか分からないほど好転した事例もある。当時の知識と技量に戻り、今の自分が関わったら、失敗していたに違いないとさえ思う事例もある。当時に比べ劣っているものは、簡単に言えば、「若さ」である。若さゆえに、思わぬ好転をもたらした事例がいくつかあったのだ。
若いがゆえに、対象となる子どもしか見えない。視野が狭い。たとえば、教師が子どもに関われなければ、今ならば教師に子どもへの関わり方を教える。当時は、教師を押しのけて、精魂を傾けた関わりをしてしまっていた。問題が早く解決をすることを一義としていた上に、視野が狭く、問題解決のために精魂傾けた。それゆえに事例は好転したのだし、強烈な意志や熱意がそれを支えた。それは、若さゆえの特権であったように思う。
▼今に生きる学び
一方、当時学び、今にも生かされていることは実に多い。たとえば、「力量のあるカウンセラーが行うことは、流派による違いがあまりない」との学びがある。また、「力量のあるカウンセラーが行うことやその効果を、自分の理論で語る」そして、「自分が行うことや効果を、相手の理論で説明する」ことがある。
教育相談は、親担当、子ども担当で1つの事例を受け持つ。その際に、拠って立つ理論が異なる者で問題解決に当たる場合がほとんどである。しかし、一緒に関わる相談の場では担当者間の動きに違和感はない。力量のある経験豊かなカウンセラーほどそうなのである。当時は、クライエントへの関わりについて、先輩カウンセラーにその理由を尋ね、説明を求めた。その説明を自分の理論に翻訳して理解した。そして、自分の技法は、相手の理論に翻訳して語るように努めた。このことが、今の臨床勘に役立っていると思う。
当たり前の話だが、臨床勘は漫然と得られるものではない。多くの体験を理性的に分析し、分類し、蓄えることで、その経験が自動的に臨床勘として発動するようになるものであると思う。この作業が体験を咀嚼して、意味ある経験として次に活かすことに繋がり、今の臨床勘が作られているように思うのである。

あぁ 苦悩の青春時代

リレー・エッセイ・会報 76号掲載

明治大学教授 諸富 祥彦

私は、自分のことをいまだに新米カウンセラーであると思っている。年は四○代前半であるが、明大の6人の心理スタッフの中では、最年少である。また、カウンセラーのほかに大学教員や著作業もしているため、カウンセラー専業でやってきた仲間に比べると扱ってきたケースの数も必然的に少ない。したがった私はカウンセラーとしてはまだ新米であると自戒しており、今でも新米である私がさらに新米であった頃を回顧するとなると、学生時代のことを語らざるを得なくなる。
私の青春時代は暗黒であった。生きる意味の問いに苦しみ、二度ほど自死を試みてもいる。その時、理解者が得られなくて苦しかった思いを今になって著書で表現して紛らわせているが、そんな私の本を読んで「ぼくの苦しみは、先生にしか分かってもらえないと思って・・・」と来談する若者もいるから、あの苦しみも無駄ではなかったのかもしれない。
そしてそんな私がなんとか生きながらえたのは、周囲の人々に恵まれたからである。
まず一人目は、国分康孝先生。高校の時、私の手紙に親切なお返事を頂いて以来、今に至るまでずっと支えていただいている。学部1年の時は、漠然とした不安が高まると先生に手紙を書き、返事をいただくことで救いを得ていた。ある時、あまりに不安になった私は、当時東京理科大学に勤務されていた先生を、教室近くのトイレで待ち伏せしたことがある。「あ、偶然ですね、先生」とその場を去ろうとした私に、「きみ、ぼくに何か話したいことでもあるんじゃないのか」とあたたかく呼び止めてくださった。あの時の喜びと安堵は、今でも私の生きる力となっている。学部2年になって筑波大学人間学類の新入生歓迎合宿で構成的エンカウンターをおこなった。その時の様子を報告した私の手紙が国分先生の著書「人間関係」(歴々社)に掲載されている。私の宝物である。
その頃、もうひとつ、私の大きな支えとなったのは筑波大学カウンセリング研究会での仲間や先輩方との出会いであった。松原達哉先生が顧問をしてくださり、器となってくださったこの研究会は、サークル気分で気軽に入れる会であったが、学部の1年の頃からマスターやドクターの院生と直接語り合えるのが大きな刺激となっていた。いっしょに学ばせていただいた先輩方に、上嶋祥一さん(千葉商大) 末武泰弘さん(法政大) 瀧野洋三さん(大阪教育大) 篠田晴男さん(立正大) 杉江征一さん(筑波大) 春日作太郎さん(都留文科大) 同級生に神村栄一くん(新潟大) 後輩に伊藤伸二くん(常磐大) 会沢信彦くん(文教大) と大学教員になった方々がぞろぞろいる。こんなメンバーで合宿に行き、ひたすらエンカウンターをしたり、毎週酒を飲みながら熱く語り合っていたのである。この研究会での先輩方や同級生、後輩からの刺激を学部1年生の時から得ることができたのは、とても大きかった。それがなければ、まったく違った人生を歩むことになっていたかもしれないと思う。
またその頃(24年前)、私は論理療法にはまっていてエリスのREASON AND EMOTION IN PSYCHOTHERAPYを原著で読んでいたため、認知療法を扱った内山喜久夫先生のドクターコースの授業に何とかして顔を出したい衝動に駆られた。初回の授業に出て、結局すぐ逃げ出したのであるが、この時たしか内山先生は「英語だけどついてくるのなら、出てもいいよ」と学部2年の私に言ってくださった。考えてみれば、驚くほど寛容なお言葉である。
今、こうして振り返ってみると、当時の私は、エネルギーばかりやたらとありながら、悶々と暗闇のなかをひたすらさまよい、自分を持てあましている、へんな大学生であった。そんな私にとって当時の先生方や先輩方は、(こういっては不遜であることを重々承知で言わせていただくと)最高の治療環境であった。治療的な雰囲気の生活環境に、勝る技法はない、と今も私は信じているが、その背景には、当時の私をあたたかく受け入れ支えてくださった方々への感謝の気持ちがあることをお伝えしておきたい。
さて、その後、再び私が、治療的な生活環境に置かれたのは、それから13年後、33歳になった折りの英国留学中、ブライアン・ソーン先生がリーダーとなって創出された英国ロジャース派の雰囲気に触れたときのことである。「ロジャースの受容って・・・このことだったのだ!」と思わず唸ったあの温かさ。私は英会話がほとんどできないが、なぜか、それでも伝えたいことはすべて伝わるのである。さらにその後うかがったポーランドのアーノルド・ミンデル先生のプロセス・ワークコミュニティ、現在の私の師である開業カウンセラー藤見幸雄さんとの出会いでも、同じ質のあたたかさを実感することができた。
「ここでは(この人とのつながりにおいては)、自分の中の奇異な部分を出してもありのままに受け止めてもらえる」―そんな雰囲気を感じることができた時、私は、自分が成長するのを実感できた。こうした体験が、私のカウンセリングの、ひいては私の人生全体を支えてくれているように思う。

出会いに支えられたカウンセリング人生

リレー・エッセイ・会報 71号掲載

兵庫教育大学教授・兵庫県心の教育総合センター所長 上地 安昭

私は数十年前の1971年に、大学保健管理センターの助手ポストの専任カウンセラーとしてスタートしました。わが国の当時の文部省が、カウンセラー職を国家公務員として採用したのは、国立大学保健管理センターの教官が最初だと聞いています。わが国公認の専任カウンセラーが初めて誕生したきっかけは60年と70年の日米安保闘争による全国的な大学紛争がきっかけでした。私は70年前後の大学紛争の最中に広島大学大学院博士課程を単位取得退学し、教育学部の助手を2年務めた後に保健管理センターへ移籍しました。
同時代に筑波大学では、今や日本カウンセリング学会の重鎮でおられる松原達哉先生と田上不二夫先生が、そのしばらく後に沢崎達夫先生と石隈利紀先生が、いずれも同大学の保健管理センター専任カウンセラーとしてご活躍なさっておられました。先生方とは専任カウンセラー会議等で若かりし頃から互いに顔を合わす機会があり、古いお付き合いです。
ところで、専任カウンセラーとして就任したとは言え、カウンセリングに関する専門的知識や技術は、今振り返るとその力量はきわめて乏しかったと反省しています。当時の大学院では、カウンセリングや臨床心理学の教育訓練プログラムらしきものは皆無に等しく、独学に頼る以外ありませんでした。幸いなことに私の場合は、大学院時代に国立病院精神科の非常勤カウンセラーとしての職を得、かろうじて病院臨床を実習することができました。
その後専任カウンセラーに就任してからは同じ大学内で、現在わが国の臨床心理学をリードする立場にある大先輩の上里一郎先生や 勘八郎先生が主催する学生相談研究会や臨床心理研究会へ参加し、両先生から多大な刺激を受ける実に幸運なチャンスに恵まれました。
私が本格的なカウンセリングの教育訓練を受けたのは、新米カウンセラー時代に米国ミシガン大学カウンセリングセンターへ2年間留学したときでした。留学期間中に、私のライフワークである「時間制限心理療法」の提唱者であるジェームス・マン(ボストン大学精神科教授)との出会いがあり、12回面接による教育分析を受けたのが大きな財産になっています。カール・ロジャースの4日間のワークショップへも参加し、個人的にお話しするチャンスも得ました。行動主義心理学の第1人者B. F. スキナーや著名な実存主義心理学者のロロ・メイの講演を拝聴する機会もありました。さらに、留学期間中に30年程前の若かりし頃の現明治学院大学教授の下司昌一先生と現筑波大学の渡辺三枝子先生が、上智大学の故小林純一先生とご一緒にミシガン大学カウンセリングセンターへ来られ、お会いするご縁もありました。下司先生と渡辺先生の両先生とも、名実ともに一流の心理学者として現在ご活躍なさっておられ、旧知の出会いに感謝の思いでいます。
新米カウンセラーの頃は、とにかく機会があれば、ワークショップに研究会、研修会、学会等、いろいろな場所へ出かけて行った記憶があります。カウンセリングや臨床心理学の大家に出会い、講義を聴くのが楽しみでした。しかし、当時のことを今振り返ってみると、新米カウンセラーの頃は、カウンセリングの専門家としての力量が伴わないせいか、不安定な精神状態にあったような気がしてなりません。そのためにいろいろな研修会へ出かけることに貪欲であったと理解しています。未熟なカウンセラー故に、自らの心の癒しを求めて著名な大家のもとへ、いとまなく馳せ参じた思いがしています。我が国のカウンセリング心理学の第一人者の国分康孝先生との出会いも、私の中にそのような思いがあったに違いありません。当時、誠信書房から出版された、国分先生の一連の「カウンセリング」シリーズの専門書は、私のカウンセラーとしてのアイデンティティを構築するのに大いに役に立ちました。「カウンセリング」と「教育」の統合が、國分先生の一貫したテーマではないかと私は理解しています。「カウンセリングと教育」は、現在私が最も関心を注いでいるテーマで、國分先生には共感するところが多々あります。
あらためて新米カウンセラー時代を振り返ってみると、実に多くの先輩・同僚カウンセラーとの出会いがあったこと気づき、感慨深い思いです。さらに、新米カウンセラーの時代を経て、ここ20年来教師カウンセラーを養成する中堅カウンセラーとしての役割を担ってからは、カウンセリングの研修に励む現職大学院生から、多くのことを学ばせていただいています。現在では教師カウンセラーの養成は、私にとって生涯をかけての教育研究テーマであると認識しています。この間に全国から派遣された100名を超す有能な教師カウンセラーと大学院ゼミで出会えたことと、ライフワークとしての「時間制限カウンセリング」と「カウンセリングと教育」、「学校の危機介入」のテーマに出会えたこれまでのカウンセリング人生に感謝するこの頃です。

「新米カウンセラーであったころー多くの苦労の末の“新米”の味わいー」

リレー・エッセイ・会報 70号掲載

愛知学院大学心身科学部教授 田畑  治

“新米”の語義は、今年収穫した米、今年米(こんねんまい)ということである。獲れたてであるから、光沢、味、香り、粘りの良さなどが、“古米”に比して数段と優れている。また“米”は、収穫までに“八十八”種の苦労や手間をかけていくことが必要である。
筆者の場合、カウンセリング実践・研究の主要な場は、大学の心理教育相談室や学生相談室であるが、「新米カウンセラー」の時期は、いつ頃どのようなことをしたか。
1.新米カウンセラーになる前の教育・訓練を受けた時期:米の苗が植えられ、稲が水分や日光・栄養分を吸いつつ育ち、収穫されるようになる時期は、大学院学生時代であり、主要な場は、大学・心理教育相談室であった。この時期は、カウンセリング実施に際して、クライエントの皆さん方の了承を得て、面接を録音させてもらい、面接後にそれを「逐語記録」にし、ケース会議や「カウンセリング・プラクティス研究会」で綿密に検討してもらうのを常としていた。とにかく、面接後、明けても暮れても「逐語記録」を作成し、夕方には手の指にタコができた程である。これは、自分が実際に行った録音面接を再度聞き直していくことで、応答の適・否を自分自身で吟味するのに良い訓練になった。「逐語作り」の始めは、何と不適な応答をしているかに直面し、嫌になるが、それを我慢して作成していると次第に楽しくなって行くのを覚えたものである。これは“セルフスーパービジョン”と言えるが、今日、訓練中の大学院生があまりこの作業をやらなくなっているように思う。当時の大学院学生は精々6~7名程度であり、提出する順番も結構よく回ってきていたように記憶する。当時、学外から産業カウンセリングの普及に、と研修員で来ていた氏には「田畑さんは、どういうつもりでクライエントと面接を行っているのか!?」とよく指摘されたのを覚えている。氏は生粋のロジェーリアンであった。研究会で提出して検討してもらう際に、そういうことを言われると妙に腹が立ち、抵抗を覚えたものである。今から思えば、スーパービジョンのあり方を反面教師的に学んだような気がする。
新米カウンセラーになる前の経験で、学外の研修会への参加も大切なことである。
一つは、大学院学生になった夏に比叡山・延暦寺の宿院で5泊6日のカウンセリング研修会が開催されて、それに参加した。ここでは参加者中心の“グループ体験”が主であるが、前年に、ロジャーズが来日し、講演会やロール・プレイを行った録音テープも聴く機会があった。このことについては、別項(氏原・村山編、で記しているからこれ以上触れないが、聖なる比叡山の懐に抱かれ、参加者中心の運営による“グループ初体験”とともに、新米カウンセラーになる貴重な経験になっている。人間の成長・変化ということにかかわる重要な考え方に出会った気がする。
学外での研修経験の二つは、知的障害者の施設(陶器製造で有名な滋賀県信楽町にある信楽青年寮)へのフィールドワークである。そこには、教官や先輩連との共同研究として出入りしたが、知的障害者が信楽焼きの生産を通じて、社会とつながることの自己意識や人格発達の研究に取り組んでいった。この成果は日本教育心理学会で発表された。
学外での研究経験の三つは、児童相談所での判定業務に嘱託として従事したことである。そこでは、午前中には予約した児童の遊戯観察や心理テスト(知能検査法、描画法、投影法など)を実施して、報告書にまとめることをやり、午後はカウンセリングや遊戯療法に携わっていった。いろいろと忘れられないケースがあった。ここでの新米カウンセラーの研修として、京都から朝早く時間に間に合うように大阪まで通勤したこと、また異職種の専門家(医師、ソーシャルワーカー)や事務の方との協同ができたことなどである。
2.新米カウンセラーの時期―職業生活の始まり:大学院博士課程を満期で退学して、大学の臨床系助手になった。これも新米助手として、また新米カウンセラーとして、采配を振うことになった。新米カウンセラーとしては、これまでと同様に来談者のカウンセリングに携わるのは勿論のこと、助手としての多様な業務に携わった。教育・研究の実践のみならず、教育や相談室の運営の“雑務”にも関与した。折しも、”大学紛争”の嵐が吹き荒れ始めた。この紛争に来談者が巻き込まれないように避難させたり、相談記録が紛失したり、盗難されないように学外某所に移管するなど、あまり知られていないことが多い。紛争がひとしきりついた頃に、他大学の専任講師で赴任した。当時の大学院生が送別のソフトボール大会を開催してくれたのは思い出になる。
“初心忘るべからず”という言葉があるが、クライエントが「いま・ここで、何を感じ、何を考え、何を生きているか」を新米だけでなく、古米でも、カウンセラーは絶えず心がけカウンセリングをしていかねばならない。新米の逐語記録つくり以降、今日までことばの水準だけでなく、ことば以外の“声の調子”、“語りの抑揚・ピッチ”、“表情”などからも全体としてのクライエントの生き方が、浮かびあがるようになればしめたものである。またカウンセラーとして、いろいろな職種の人々との人間関係の交流も不可欠である。

「新米カウンセラーであったころ―インテーク・カンファレンスでの緊張感―」

リレー・エッセイ・会報 65号掲載

筑波大学教授 田上 不二夫

指導教官の原野広太郎先生の研究室に呼ばれた。大学院の博士課程2年生のときであった。「内山(喜久雄)先生から、君を助手にほしいという話しをいただいた。君にとっていい話しと思うから行きなさい」椅子に腰掛けた原野先生は助手としての心得をじゅんじゅんと諭された。かくして東京教育大学教育学部教育相談研究施設の助手として、私の新米カウンセラーとしての仕事は始まった。
話しは戻るが、自分がカウンセリングをするとは夢にも思っていなかった。自分のことさえ分からないのに、人に助言できるはずがない。カウンセリングと人生相談を混同していたのである。たまたま大学近くの古本屋で立ち読みした本の扉に、著者とロジャーズとの出会いが書かれていた。「クライエントは、自分がどうすればよいか、自分で答えを持っている」。それを読んで、クライエントと二人三脚でいいなら自分にもカウンセリングはできるかもと思ったが、それでもカウンセラーになろうとは思わなかった。
大学院に入学したとき、指導教官の原野先生から、「教育相談」の授業に出るようにという指導があった。実験だけではなく臨床も手がけるようにということである。授業は教育相談研究施設のインテーク・カンファレンスを兼ねており、ケースを担当した教官のもとで指導を受け、それをレポートにまとめるというものであった。氏森先生から集団プレイ・セラピィによる自閉症幼児の社会性の援助、深谷先生からプレイ・セラピィによる緘黙児への援助、東京外語大からいらしていた遠藤先生からは呼吸法と同時音読法による吃音者への援助など、それぞれの先生の得意技を、事例を持ちながら教えていただいたことは貴重な体験であった。原野先生からは暗示療法による心因性の皮膚疾患者への援助について指導を受け、言われるままにしていたら、あれよあれよという間に炎症が改善し、何が起きたのかわからないままに治ってしまった。
助手になって、事務官に手伝ってもらいながら物品管理と会計を担当したのは、はじめてのことでまごついた。しかし内山先生から系統的脱感作法による書痙への援助、大野先生から動作法による脳性麻痺への援助などを通して、カウンセリングについて教えていただくうちに、しだいにカウンセラーらしくなっていった。
最も緊張したのは、自分も大学院生のとき参加した「教育相談」の授業である。火曜日の午前中に、その授業はあった。前の週の土曜日に助手が手分けして7ケースをインテークし、それを報告して指導方針と担当者を決めるのである。大勢の教授の前で、自分のカウンセラーとしての資質、見立ての能力をためされている感じがした。月曜日の夕方になると、インテークしたケースについて、自分なりに問題は何なのか、報告する順序はと考えているうちに、緊張が少しずつ高まってくるのを感じた。
新米カウンセラーを最も悩ましたのは、女性クライエントの感情への対応であった。面接中に抱きつかれたケース、「泊まっていく」と面接室で動かなかったケース、相談室の外で待ち伏せされたケースなど、新米カウンセラーにとっては難題であったが、私的な空間と面接室の意味を考えるチャンスにもなった。
なんだかんだするうちに、やがて新米カウンセラーを卒業していった。

「心理学インターンとして過ごした日々」

リレー・エッセイ・会報68号掲載

埼玉大学教授 茨木 俊夫

大学院の博士課程に入学したその夏に米国ニュージャージー州のインターン生として留学することになった。1996年のことである。当時の臨床心理学会職能局が中心になって、臨床心理学博士過程の学生を米国に派遣するプロジェクトを制度化した留学第一号である。
最初の着任先は州立の男子コロニーで、5歳から60歳以上までの収容施設である。定期的に診断を行い、カルテ箱に整理していく仕事である。東京教育大学の学部時代は特殊教育を専攻していた。知能検査、色覚検査、視野測定、聴力測定などにはよく親しんでいたので、さまざまなタイプの収容者を見ることが出来る環境は知的冒険のできる宝庫であった。
着任後、州内のインターン生は週に一度合同研修があり、プリンストンのNPIに集まる。そこには専任の指導者がおり、臨床活動の様々な課題について教育訓練を受けることになっていた。
私の課題は、自閉症の特徴を併せ持つ聴力障害のある児童の聴力診断であった。この子と付き合ってみて分かってきたのは、チョコレートの紙をカサカサこすると「ぱっ」と音の方を振り返ることである。教育大学時代に寿原健吉先生に聴覚音声生理学で鍛えられてきたので、何とかして正確な診断をしてみたいと思った。プリンストン大学のライブラリーで探した結果、Joseph E. Spradrin が1965年にオペラント条件付けの手法で聴力測定を試みていることが分かった。プリンストンに大きな邸宅を持つシリル・フランクス先生に、かねてから「としおの部屋を作ってあるから何時でも来い」と言われていたので、早速伺い、ここが私のプリンストン別邸となった。コロニーの研究室でオペラント条件付け手法を用いた聴力測定装置が出来上がったのは、こんな経緯であった。
その後、2箇所目の研修施設となるJamsburg に移動することになった。同期生のインターンがベトナム戦争に従軍する事になり、私にとっては少年事件を担当する魅力もあったものの、彼がきっと戻ってくるよう祈って、そのポジションについた。
少年の家では、収容者はほとんどがニューアーク近郊の町から補導されてきていた。社会復帰できるようなトレーニングを工夫してプログラムを作ったが、オペラント技法を用いて「トークン・エコノミー」場面を構成させると、子供たちの動きが活性化されることが分かってきた。

「感謝と祈り」

リレー・エッセイ・会報67号掲載

聖心女子大学教授  橋口 英俊

いつも楽しい会報の編集をして下さっている山崎先生からこのお話をいただいて、吃驚すると同時に大変戸惑った。今までこのような形で過去を振り返ったことがなく、現在もいろいろな研修に出させていただくと、新鮮で学ぶことばかりで、ただ感心し、感謝しながら新人の気分を味あわせていただいているからである。しかしお話を頂いてからあらためて考えてみると、大学在学中も含め、今日まで、40年以上も曲がりなりにカウンセラーといわれるようなお仕事をさせていただいたことになる。今は天職だと思い、大きな生きがいであることも事実で、大変有り難く感謝している。
私がカウンセリング(的なもの)にはじめて触れたのは、大学に入学した時のオリエンテーションで、中村弘道先生が学生相談について講義して下さったときである。どんなことでも、予約すると秘密厳守で親身に専門の先生が相談にのって下さるというお話で、漠然と大学生活に抱いていた不安がかなり薄らいだのをはっきり思い出す。大学に入った動機が、中村先生のように心理学やカウンセリングのような勉強がしたいということがあったので一層身近に感じ、何回も相談室にお邪魔させていただいた。
ところで、私は母子家庭の長男で、田舎から自活を条件に上京したので、折よく大学近くで住み込みの家庭教師を紹介していただき大変助かった。同時に、家庭教師といっても、
家族の一員として扱っていただき、そのうち勉強以外のことなどいろいろな相談も受けるようになった。特に父親は大変苦労して事業を起こし、成功して経済的には豊かになったが、家庭的には必ずしも満足とはいえず、ご家族の心の奥深い問題に否応なしに踏み込まざるを得なくなり、葛藤し、自己嫌悪に陥ることもあった。当時出た沢田慶輔編『相談心理学』や日本教文社『フロイド選集』などよく読んだ。時々学生相談室にもお邪魔し、親身に話を聴いていただくことの意義、また適切な先生を紹介して下さり、今でいうネットワークやシステムの重要性など本当に大切なことを身をもって学ばせていただいた。その頃紹介していただいた森田宗一先生、田村満喜子先生など懐かしく思い出す。
今思うと冷や汗ものだが、このへんから私のカウンセリング人生は始まったといえる。お陰で何とか問題も解決し、駒場から本郷への進学を契機に住み込みを辞し、本格的に心理学特にカウンセリングや臨床心理学を学ぶために、教育心理学研究室に入れていただく。そして大学院後期課程を満期退学するまで教育心理学を中心に人格心理学、臨床心理学、発達心理学、心理診断法、障害児心理学、産業心理学、解剖学、病理学、精神医学、文化人類学など他学科聴講も含め関係のありそうなものはできるだけ学ばせていただいた。その間、国立精神衛生研究所、国立国府台病院で、研究生や助手をさせていただき、今もお世話になっている日本医科大学附属病院では嘱託(のち講師)として心理臨床に関わらせていただいた。当時からお世話になった恩師の依田新、三木安正、肥田野直、佐治守夫、片口安史、霜山徳爾の各先生、先輩の村瀬孝雄、芝祐順、井上健治、池田央、古沢頼雄、伊藤隆二の各先生その他、今思うとどの先生、先輩も自らに厳しく他には親切で、本当に有り難く、学ぶことばかりでただただ感謝の念で一杯である。
また恩師の沢田慶輔先生を中心に、先輩の神保信一先生、派遣生でおいでになっていた小・中学校の先生方と数年間行ったアクションリサーチは、学校現場を知るきっかけになり、私にとって大変刺激的で有意義であった。
その他学部時代に東大新聞でアルバイトしていたときに教育心理の先輩江副浩正氏と知り合い、乞われてリクルートの前身の創立に携わった。それがきっかけで、社長の心理診断という記事を約3年間、ある月刊誌に連載し、一部の企業から今でいう産業カウンセリングのような仕事もさせていただいた。感謝に堪えない。
その頃縁があって東京経済大学に専任講師として赴任し、青年心理学、教育心理学を担当、傍ら学生相談室相談員を命じられた。以後大学を変わっても相談員(カウンセラー)は変わらず、今日に至っている。有り難いことである。
また私は生来体が弱く、おまけに無医村に近い田舎で育ち、幼い頃から東洋医学(鍼灸、按摩、煎じ薬など)のお世話になることが多く、大学でカウンセリングや臨床心理学を学ぶ過程で東洋医学の中に脈打っているのはまさにカウンセリングや臨床心理学ではないかと思うようになった。そこで大学院の時(一部就職後)、その種の学校に通い、免許取得後はカウンセリングや心理療法の一環として東洋的な思想や技法を含めて考えるようになり、陰陽、補寫、心身一如など参考になることが多い。特に母が若くして夫(父)を亡くし、4人の子どもを育てるのに、並大抵でなかったことと、いつも両手をあわせ祈っている姿がカウンセラーになった自分と重なり、クライエントに対しいつのまにか申し訳ない、有り難うとその後ろ姿に両手をあわせる習慣が身についた。先輩の伊藤先生から同じような、もっと深いお話を伺い感激している。また沢田先生、国分康孝先生のご縁で論理療法(REBT)を知り、ロゴセラピーとともに大きな柱となった。これを機に人間の幸せに真に役立つ包括的統合的カウンセリングを目指し、初心に戻って精進していきたいと思う。

「私の受けた教育分析」

リレー・エッセイ・会報66号掲載

明の星短大客員教授 國分 久子

大学卒業後間もなく(1955年頃)、私は自分の専門性の不足を補うべく霜田静志の研究所に通っていた。そこでは、霜田静志の精神分析の講義だけでなく、外部からも新進気鋭の学識者が講師として招かれていた。小此木啓吾の性格分析、長島貞夫の役割理論、外林大作の夢分析、友田不二男の来談者中心療法、土居健郎の甘え理論、菅野重道の集団心理療法、池田由子のホスピタリズム、高木四郎の児童精神分析など、当時の心理療法の最先端の学問の息吹に溢れていた。その後、アメリカに留学してから現在に至るまで、この研究所での経験が常に学問の世界に置き去りにされないですんだ原動力になったように思う。
もともと霜田静志はA.S.ニイルの著作の翻訳者であったが、ニイルがW.ライヒに教育分析を受けたことに影響を受けて、古沢平作(東北大学助教授の時代にフロイドのもとに留学後、小此木啓吾、土居健郎、前田重治などの教育分析者)の教育分析を受けている。霜田静志の研究所に私は四、五年通ったので、同じ講義を少なくともニ、三回は拝聴した。
ところがその都度心に響く講義で、少しも退屈しなかった。受講生が自他を心の中で分析しながら聴かざるをえない話し方であった。つまりフロイドの単なる解説ではなく、フロイドを通してご自分を語った。「フロイド曰く」よりも「我思う」がそこにはあった。霜田静志の精神分析は「人間性あふれる育てる精神分析」であった。
霜田静志の講義は原書を丹念に読まれ、それをご自分の体験を通して噛み砕き、ご自分の言葉でじゅんじゅんと語るという感じだった。たとえば現実原則の説明のときご自分の話をされた。ある時、息子さんが遊んだ自転車を片付けなかったので「片付けないなら自転車は崖から捨てるぞ!」といわれた。それでも片付けなかったので、先生は本当に崖から自転車を捨てたというのである。自転車は当時、高価なものだった。しかし、現実原則を教えるためには、このような毅然とした態度が必要なのだということを教えられた。
研究所では二年間の講座を受けると、教育分析を受けられるシステムになっていた。カウンセラーとしての道を歩もうと思っていた私は、自己理解のために分析を受けたいと思っていた。霜田静志の教育分析は自由連想を五十分ほどして、十分ほど解釈をするという伝統的な方法であった。今は簡便法の時代ゆえ、私自身は自由連想法を用いたことはない。しかしこの体験から、一本の糸を発見するという感覚が、対面法でも役に立っている。
カウンセリングでアセスメントといえば、心理テストを連想する人が多いが、傾聴しながら相手の問題を発見するのも重要なアセスメントである。このアセスメントをするためには、精神分析の読み取り方(解釈)は有効である。それゆえ、カウンセリング研修では「精神分析の理論と技法」の講義は重要だと思っている。
さて、教育分析を受けて「なるほど」と思ったことが二つある。感情転移と抵抗、この二つを体験したことが、現在スーパーバイザーとして人と接する時役に立っている。私の父はどちらかといえば、厳格で気むずかしいところがあった。ところが、傍から見ていて柔和と思える霜田先生を、私はどこかで怖がっていた。感情転移というものはそういうものである。したがって、いくらこちらが相手によくしても、相手から疎んぜられることがあると知ったのは大きな収穫だった。
もう一つの貴重な体験は、典型的な抵抗を起こしたことである。その日、私は分析のため勤め先の病院を定期に出た。代々木で乗り換えればニ十分で西荻窪駅に着くはずであった。ところがいつまで経っても西荻窪に着かない。時計を見るとすでに分析の時間は過ぎていた。胸騒ぎがして電車を降りたがそれは見知らぬ駅だった。私は慌てて電話を入れようとしたが、霜田先生の毅然とした顔が浮かんでくる。「自転車がいらないなら、捨てちゃうぞ!」「それに近いことを言われるのだろうな。君は、いつも分析に遅れてくるし、意欲が感じられない。もうやめちまえ!」そんな言葉が浮かんでくる。もうこれで終わりだなと思った。生きた心地もなく、受話器を握りしめたその耳に聞こえたのは霜田先生の穏やかな笑い声であった。「それは大変でしたね。今日はもう遅いですから、来週いらっしゃい。」それはとがめる雰囲気ではなく、暖かく包んで下さる声だった。それが抵抗だと知ったのはずっと後のことである。その後、抵抗の解釈は私の得意技のひとつとなった。

「新米カウンセラーであった頃」

リレー・エッセイ5・会報63号掲載

日本女子大学名誉教授 杉溪 一言

新米カウンセラーであった頃 ――― それは半世紀も昔の、 古いアルバムの中に収まっている懐かしい時代である。 しかしその頃の思い出は今も鮮明に残っており、 今日のカウンセリングの活況とくらべると、 まことに今昔の感にたえない。
私は当時横浜国立大学の心理学の教官をしていた。 1951年にアメリカの講師団がやってきて SPS 研修会 (学徒厚生補導研修会) が開かれ、 私は同僚の伊東博さんと一緒に参加した。 その時の経験が私とカウンセリングを結ぶ契機となったのである。 (SPS 研修会については 「カウンセリング研究 Vol. 26 1 」 所収の拙論 「日本におけるカウンセリング ―― 回顧と展望 ―― 」 を参照されたい)。
伊東さんと私は研修会で学んだことを何とか生かしたいと考えていたが、 1955年 (昭和30年)に横国大学学芸部に学生相談室を開設することが出来た。 その頃はカウンセリングといっても教授会の理解は得られそうもなく、 学部長を説得してかなり強引に設置したことを覚えている。 したがって部屋も満足なものがなく、 古自転車のころがっている宿直室の土間に粗末な机と椅子を置いてともかくも出発したのである。
私の 「新米カウンセラー」 はそのときから始まったわけだが、 当時は誰もが 「新米」 で日本にはスーパーバイザーもなく、 研究会の集りで指示か非指示か折衷かといったことを喧々囂々話しあっていた。
相談室のカンバンを出して間もなくのこと、 ある教授の依頼で一人の学生と面接することになった。 教授の話ではゼミで全く発言しないので単位も出せない。 このままでは卒業も出来ないからカウンセラーのところへ行って指導をうけてこいということであった。 私は小学生の 「緘黙児」 はわかるが大学生で全くものをいわないのはどういうわけだろうと訝りながら会ってみると、 耳がつぶれて変形している。 柔道の稽古をしていてつぶれたということである。 なるほど体格もガッチリしている。 それなのに発言できないのは何かわけがあるのだろうと聞いてみると、 何故かその沈黙学生が急に喋りだした。 その内容は忘れたが、 3 回にわたって面接し、 その間喋りつづけていたことを覚えている。 彼はカウンセリングの効果かどうかは解らないがその後単位も取得し、 無事に卒業して教職についた。 暫くして現任教育の講習で出会い、 礼をいわれたことが印象に残っている。 私の最初のクライエントはたまたま上首尾を得たが、 今から思うと、 新米カウンセラーのひたむきな”初心”がクライエントに通じたのかも知れない。
学生相談は当時の私にとってアイデンティティの中心的な部分を占めていたが、 まだ新米の頃の経験で今も忘れ得ないケースがある。彼女は心理学科の学生で数学科から転科してきたのだが、 ある日カウンセリングを申込んできた。 非常に落ちこんでいて、 近く教育実習が始まるが生徒の前で話す自信が全く無いという。 しかし両親や親戚の期待もあって教員志望をやめるわけには行かない。 迫り来る実習を前に進退きわまって自殺もしかねない様子だった。 私は始めのうち非指示的に対応していたが、 せっぱ詰まったクライエントを目の前にして私自身もいたたまれなくなり、 カウンセラーの役割は放り出して声高に説教をはじめた。 何をいったかはよく覚えていないが死んだ気になって実習をやってこいというようなことをいったと思う。 彼女は私の様変りにびっくりしたようだったが、 それが転機になったのか気を取り直して実習に参加し、 結果的には元気に実習を終えることが出来た。 このケースも 今にして思えば、 私の中の一途な気持ちがクライエントの心に響いたのであろうか。
私はわが国のカウンセリングの発達とともに年を重ねてきた。 この半世紀の間に内外の学者、 カウンセラーから多くのものを学んだが、 ロジャーズもいうようにカウンセラーは、 クライエントから最も多くを学ぶものだと実感している。 私は型にはめられることが嫌いで、 良くも悪くも自己流を貫いてきたが、 人間は結局その人独自の存在であり、 その人らしく生きることがカウンセラーのオリジナリティを育む土台となるのであろう。 その意味で年老いた今も新米の頃の初心を忘れずに生きて行きたいと思っている。

「私の新米カウンセラー時代」

リレー・エッセイ4・会報62号掲載

福島 脩美

昭和30年代は日本の主な大学に次々と学生相談室が作られていった時代で、たまたま私が国の心理職試験に合格していたことから、1961年(昭和36年)4月に東京学芸大学学生課職員として採用され、学生相談室の開設準備と受け入れ面接の仕事が私のカウンセラーへの最初の一歩になった。
当時はカウンセリングを専門に勉強しているものはごく限られていたとはいえ、大学でほんの少しばかりの心理学をかじっただけの私に、学生相談の仕事が出来るとは思えなかった。幸い文部省の内地留学制度で九州大学に派遣され、初任給とそれより多い滞在費を全部使って人生で一番の金回りのよい時期を過ごした。九大では、関計夫教授が受け入れの中心になって、私のような立場のものが集まって感受性訓練やグループダイナミックス、自由連想の実習などに参加した。講義では、医学(池田教授)、精神分析(前田講師)等の他、他大学から友田不二男、岸田元美などの集中講義もあった。
大学に帰ってから、品川不二郎(臨床心理学)、佐藤正(青年心理学)の両先生に学生相談委員をお願いし、相談室事業計画の説明、看板づくり、絵や応接セットを探し、学生への案内文づくりなどを開始した。そのかいあって相談件数はかなりの数になった。
その傍ら、いくつかの研究会や研修会に参加して勉強した。その一つが学生相談研究会(中村弘道会長)で、東京地区研究会には飯塚銀次、拓殖明子らが参加して主導的役割をとっていた。当時入学不満感が学生生活不満感に結びつく事例が少なくなかった。そこで学生生活意識調査を実施し、その結果を、「入学に対する満足感について」(学生相談第4号、15-20、1964)、「教師への道」(東京学芸大学、1966)などにまとめ、報告した。そして3年目、課長から、ある大学の係長に転出しないかと突然訊かれた。学生相談という仕事をしているが、私は学生課の文部事務次官であるから、いずれは法律を勉強して行政の階段を上るのが通常の道と教えられた。私は職を辞して、東京教育大学大学院に進学し、実験的人格心理学、カウンセリングと心理療法、心理学研究法などを学ぶとともに、生涯にわたる師と研究仲間に出会うことになった。
その後、東京学芸大学教育心理学教室に教員として迎えられ、学生相談委員を担当するとともに、研究室に教育相談室をひらき、教育相談臨床での新米カウンセラーを経験し、その養成に当たることになった。
新しい機構づくりに取り組んだ時代は、今も印象が深い。初心忘るなということであろうか。

「私の新米カウンセラー時代」

リレー・エッセイ・会報61号掲載

内山 喜久雄

私のカウンセリング歴は別に自慢にもならないが、古いものでほぼ半世紀近い。1949年、学制が変わり、新制大学(この言葉は今も通用するのだろうか)が発足したが、当時、勤務していた新設の群馬大学学芸学部心理学研究室でも非公式ながらその一隅に教育相談室が設置され、市民からの子供のしつけや、種々の問題解決に関する相談に応じることになった。
当時は未だ30代になったばかりの駆け出し助教授であったが、一応心理学担当者ということで私も今で言うカウンセラーとして駆り出されたのである。ただ、私の母校、東京文理科大学(現・筑波大学)心理学科には、1936年創設された、おそらく我が国最古の大学付属教育相談部があり、二名の助手がこれに当たっていたので、心理学科在学中の私も戦時下ではあったが、見よう見まねで知ってはいた。したがって、駆け出しながらそれほど見当違いなカウンセリングにはならなかったように思う。
当時、私は勤務地の前橋市に住んでいたが、時には2時間あまりかけて東京の母校を訪れ、ロジャーズの来談者中心カウンセリングにいたく感心したのを覚えている。ただ、「カウンセリングは、指示であってはいけない、無条件の受容こそカウンセリングの神髄だ。君の考え方はまちがっている」とその道の先輩から「指示」されたときは、ちょっと妙な気がしたが。
こうして半ば、暗中模索のうちに兎にも角にも私の駆け出しカウンセリングは続いた。
そのころから、ロジャーズの考え方も基礎としては重要不可欠だが、それだけで十分とは言えないと考え、これを補完できる原理を以前から他に求めていた。
心理学出身の私の帰着するところは当然、精神分析か行動理論であったが、私の主義として実証性の希薄な理論(といったら叱られるか)にはついて行けず、結果として後者を選んだ。当時、選択性緘黙(eclectic mutism)の治療とカウンセリングに取り組み、元来、学習理論指向の強かった私はなかでも殊にドラスティックといわれるガスリー(Guthlie, E.R.)の接近説(contigutiy theory)を採用し、これにはまった。現在の行動カウンセリングの「はしり」ではなかったかと思うが。なかなか臨床的な効果はあったようで、これを基点としてまとめた研究がその後、私の学位請求論文(1959)となっている。

「『境界例』と『ロジェリアン』との出会い」

リレー・エッセイ・会報60号掲載

平木 典子

私は1960年代の初期にミネソタ大学でカウンセリングの訓練を受けて、指導教授も先輩もいない日本に帰国した。新米カウンセラーとしての体験の始まりはも大げさに言えば、未開発の学生相談との悪戦苦闘と、ロジェリアンとの対決でもあった。
学生相談の初期にもっとも衝撃的だったのは、全く対応に困惑した学生との出会いである。
一方でふつうの適応をしているように見えながら、強い不安を訴えて来談した学生であったが、面接を開始してまもなく、受付の女性やインテーカーに私や嘱託の精神科医に訴えると同様の不安や妄想様観念を始終訴え始め、面接の回数を増やす要求、自傷行為、相談室の器物の破損、精神科医との面接時間の延長をねらって診療終了間際の来談、会議中の午後8時過ぎに急を訴えての来室、時を選ばぬ電話など、衝撃的行動と緊急な対応の要求がエスカレートしていった。そして、医師、受付、インテーカー、私を含めて相談所全体が、診断も確定せず、対応法も不明なまま、限りない対応の悪循環と消耗に巻き込まれていった。つまり、全員にとって初めての、当時「境界例」と呼ばれ、現在ならば「境界性人格障害」と診断されるであろう症状に出会って、全く試行錯誤の対応をしたことになる。今考えても、その学生の症状はかなり重たかったが、そのようにエスカレートした理由には、我々の対応の未熟さが大きく関わっていたことも確かであった。幸いに、その学生は留年を繰り返しながらも7年目には卒業したが、学生カウンセリングの挑戦をいきなり受けた経験であった。私にとって健康と病理のあいまいな青年期の心性に取り組むことこそ学生相談のテーマであることを教えてくれたのだった。
ロジェリアンとの対決とは、私の書いたものからは想像できない人も多いかと思う。しかし、私は帰国してからしばらく、カウンセリング界では時代遅れの異端者であった。当時、日本ではカウンセリングと言えばロジャーズであり、学生相談の研究会のほとんどのカウンセラーはロジャーズに心酔していた。私はそのロジャーズが「指示的カウンセリング」と批判したウィリアムソンに師事して帰国したのである。
ロジャーズを深く知りもしない、異端者の私が、ある研究会で先輩のカウンセリングのテープを聴かせてもらった時、「それは共感できない」と発言したことがある。ウィリアムソンは、学生部長を兼任していたが一般学生との話し合いの中でも、私が話をしに行ったときでも、非常によく相手に聴き、しかも明確に意見を述べる人であった。そのやり取りに感銘を受けていた私は、ロジャーズは知らなくとも、「聴く」とはどんなことか体感していたように思う。そして、ただ繰り返しているようにしか聞こえないカウンセラーの反応に「これは違う」と感じたのだった。浅薄で、生意気だったことは否めない私の反応であったが、納得いく説明もないまま「そんなことはない」と反論されたことは、その後私が「共感」とは何かを問い続けるチャンスになった。振り返ると、私の出発は手探りで、実に危うい。

「新米で最初が夜驚症、次が夜尿症に離婚相談- 相談が嬉しくもあり、怖くもあった -」

リレー・エッセイ・会報 59号掲載

松原 達哉

大学院修士一年に入学とともに必須の「教育相談実習」をしながら、講談社児童相談所相談員となり週一回勤務した。
最初の事例が6歳児の夜驚症の相談。講義でも教科書でも学習していなかったので、身の縮む思いでインクテークした。その日に相談所にあったKanner L.の児童精神医学辞典を熟読し、辞典通りに原因を説明した。「子どもの帰宅を暖かく迎え、スキンシップをし、夜はテレビを消し、静かな部屋で母が添い寝をするよう」助言したら、入学後9ヶ月続いた夜驚症が1週間で完治し、心理療法のすばらしさを体験し、興味が深まった。
2番目の事例が5歳児の二次性夜尿症。辞典を読み武政太郎先生のスーパービジョンを受けて相談したが、治療に1年もかかった。
3番目が離婚相談。新米で来談者が来るのが嬉しくもあり、怖くもあった。私が結婚し、子育てを経験してからは、自信もでき、母親からの信頼も深まり、相談効果もあがった。
(常任理事、認定カウンセラー)

ロジャーズかぶれ

リレー・エッセイ・会報 59号掲載

國分 康孝

私は二十代のある時期、ロジャーズに心酔していたことがある。そんなある日、ある母親からこんな相談を受けた。
「私には12歳の子どもがいます。しかし、ある病気のために20歳までしか生きられないのです。母親の気持ちとしては、わがまま放題にさせてやろうという気持ちと、きちんとききわけのよい子に躾けるべきかという気持ちが相闘っています。私はどうすればよいでしょうか」
私は「どうすればよいか迷っておられるわけですね」といった類の応答しかしなかった。その母親が立ち去ったあと私は罪障感を持った。人がはるばる来訪されたのに、何のたしにもならない面接だった、と。
そこで私は師匠の霜田清志先生まで出かけていった。「こういう場合は何と答えるべきだったのでしょうか」と。霜田先生はこう教えた。
「國分君、そういう問題は心理学になじまない問題である。君の人生哲学を丸出しにして答えたらよいのだ」と。
これがその後私が、実存主義や論理療法や仏教など思想、哲学に関心を持つようになったきっかけであった。今考えてみると、東寺の私は理論中心のカウンセラーであった。理論に人を当てはめようとしていた。クライエントに合う理論や方法を選ぶという老婆心がなかった。来談者中心という美名のもとに理論中心の面接をしていた。こういうにがい思いがあったので、その後アメリカに留学したとき、ためらいもなく折衷主義・統合主義をとり入れて自分のカウンセリング・モデルをつくることにしたのである。
特定の理論を信奉することによって、クライエントに心ならずも交差的交流をしてしまったことにこりた私は、理論志向のプロフェッショナル・アインデンティティ・(例;フロイディアン、ロジャーリアン、ラショナルセラピスト)はとらなかった。カウンセリング・サイコロジストが今の私のアイデンティティである。
(理事長)

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